屋代木簡と古代の行政

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七世紀半ばから律令(りつりょう)制にもとづく政治が始まった。孝徳朝には国造(くにのみやっこ)(こくぞう)の支配領域を再編して「評」制を施行し、天武・持統朝には全国を六十余りの「国」に分け、畿内(きない)七道の広域行政圏と各行政圏を都と結ぶ七道が整えられた。同時にそれまで地方豪族が国造などとして地域支配をおこなっていたものが、中央から派遣された国司(こくし)によって統括されるようになった。「国」は「評」によって構成され、地方豪族は評造として、国司のもとで地方支配のじっさいを担当するようになった。「評」は大宝(たいほう)元年(七〇一)の大宝令以後は「郡」と表記され、その責任者も郡司(ぐんじ)とよばれるようになった。

 そもそも「信濃」は当初「科野」と表記されたが、大宝令の施行にともなって国司制度が本格的に整備され、大宝四年(慶雲元)には各国の国印が制定された。このときに全国的に国名表記が統一され、科野も「信濃」と表記されるようになった。「科野」の表記が文献史料のうえではじめて確認できる資料に藤原宮本簡(写真20)がある。そこには「科野国伊奈(いな)評鹿□大贄(おおにえ)」とあるが、ここにみえる「伊奈評」の「評」は、大宝令以後「郡」と表記されるから、六九四年の藤原遷都から七〇一年までの時期の資料である。この木簡は、従来「科野国伊奈評□大贄」とされてきている(『藤原宮出土木簡概報』)が、長野県立歴史館の調査により訂正されるにいたった(長野県立歴史館『常設展示図録』)。

 信濃国全体の郡の構成がわかる史料は、平安時代に編さんされた『延喜式』や『和名抄』で、それによれば、伊那・諏訪・筑摩・安曇・更級・水内・高井・埴科・小県・佐久の一〇郡から構成されていた。従来は、この資料から国評制の時代(七世紀後半)から平安時代にいたるまで一〇郡(評)から成りたっていたと考えられてきた。また、国府の所在地については、奈良時代当初は小県郡にあり、平安時代になって筑摩郡へ移ったとされてきた。

 ところが、平成六年(一九九四)に更埴市屋代遺跡群から一三〇点ほどの飛鳥時代から奈良時代を中心とする木簡が出土し、また若穂綿内の榎田(えのきだ)遺跡でも木簡が出土するなど、新たに出土文字資料が増加し、信濃の古代史を考えなおす素材がふえている。とくに、屋代遺跡群の木簡は、信濃国司が更科郡司等にあてて出した「国符(こくふ)木簡」(写真17)、埴科郡司が屋代郷長・里正(りせい)等にあてて出した「郡符(ぐんぷ)木簡」などの文書木簡や、稲を貸しあたえて秋に利息を取る出挙(すいこ)を示す記録簡、屋代遺跡群付近に軍団が存在したことを示す文書木簡、埴科郡や更級郡の郷や里から屋代遺跡群付近に所在した施設に税が納められたことを示す荷札木簡など、それらがもたらす情報はきわめて多い。とりわけ、多様なウジ名が見いだされることは、古墳時代後期からこの地域が畿内諸勢力によって注目されており、それらの諸勢力がこの地域に支配権力をおよぼした時期があったことを物語っている。


写真17 屋代遺跡群出土15号木簡 信濃国司が更科郡司等にたいして発給した国符
長野県埋蔵文化財センター提供

 国符木簡は、信濃国司の命令が更級郡にあてて出され、そこから水内・高井・埴科郡へと順々に送られて、埴科郡に属する屋代遺跡群の地で廃棄されたことを示すと考えられている。こうした逓送(ていそう)の事実を証明する他の関連資料はなく、また最終廃棄地を埴科郡家(ぐうけ)とみるか、発行元の信濃国府とみるかは決め手に欠け、現時点では仮説の域を脱しないが、初期の信濃国府の問題を考えなおす契機となったことは間違いない。これは更級・水内・高井・埴科の四郡がひとつの広域行政ブロックを構成していた可能性も示しており、北信濃の地域史を考えるうえでも重要な論点を示したものである。

 これに関連して、木簡出土地である屋代遺跡群が複数の郡から都への貢進物(こうしんもつ)集積地であったことを示す木簡が出土している点は注目される。「「信濃国」更級郡余□(以下欠)」(屋代木簡七四号・写真18)と記されたものは、更級郡から都へあてた物資(税)に付けられていた荷札木簡である。それが、埴科郡に属する屋代遺跡群から出土したのである。このことは、屋代遺跡群周辺に埴科郡以外の複数の郡からの貢進物の集積地があったことを示している。複数の郡にかかわる物資の集積をおこなうのは、郡の上位機関である国(信濃国)の機能としなければならない。ただし、複数の郡の物資集積地ではあっても、そこに国府があったことをただちに意味するものではない。このことは広域行政ブロックが、物資の集積という面でも機能していたことを示しており、屋代遺跡群周辺に国レベルでの物資集積機関(税の徴収、都への輸送などにかかわる機関)が存在したものと考えられる。


写真18 屋代遺跡群出土74号木簡
長野県埋蔵文化財センター提供

 いっぽう、軍団の次官の職名「少毅(しょうき)」が記された木簡(屋代木簡一二号)が存在することも、屋代遺跡群の性格を考えるうえで重要である。この木簡の表には「郡」という文字があり、この文字が七〇一年に制定された大宝令の「国郡里」制の「郡」にあたるとすれば、木簡の出土した層位と合わせて判断すると、八世紀のごく早い時期の木簡ということになる。裏面にはこの文書の発給者と思われる信濃国の軍団の次官「少毅」の職名と、この木簡を伝達した使者「酒人部刀良」の名が記されている。某所にあった軍団から埴科郡あて(屋代遺跡群の地)に出された木簡だとすれば、軍団は埴科郡以外のどこかにあったことになり、いっぽう軍団から発せられたこの木簡がふたたび軍団にもどってきたものとすれば、屋代遺跡群の地に軍団が所在したことになる。

 屋代遺跡群の荷札木簡のなかには、更級郡家ないし更級郡内の郷から埴科郡内の地にあてて出された荷札木簡がある。「等信郷………神亀□(二)」(屋代木簡六二号)と記されたもので、これも、屋代遺跡群の地に更級郡からの物資が集積される機関が存在したことを示す。さきの屋代木簡七四号からは都へ送る物資の集積機関の存在が推定された。これらの木簡は都へ運ぶ物資以外に、この地で消費される物資の集積機関が存在したことを示し、埴科郡家の機能を越える国レベルの機関の存在を想定せざるをえない。そのひとつの可能性として、屋代遺跡群の地に軍団が所在した可能性を考えることができる。

 なお、興味深い木簡に束間(つかま)(筑摩)郡にかかわるものがある。「□(束)間郡東□」(屋代木簡一〇二号・写真19)と記されたもので、なぜ屋代遺跡群に束間郡にかかわる木簡があったのであろうか。通常、木簡の出土地以外の他郡にかかわる木簡が出土した場合、その出土地には複数の郡にかかわる施設が存在したと考えられている。この木簡は郡域を越えて行き来した可能性があり、埴科郡家と束間郡家とのあいだでのやりとりを示すか、あるいは広域行政にかかわる施設が存在したと考える余地もある。


写真19 屋代遺跡群出土102号木簡「□間郡束□」と記されている。束間郡と表記されたことが推定できる。
長野県埋蔵文化財センター提供