古代信濃の行政地名

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『延喜式』や『和名抄』などの平安時代の資料にみえる行政地名は、どのような変遷をたどったのであろうか。

 まず国名「信濃」であるが、さきに述べたように藤原宮出土木簡(写真20)では「科野国伊奈評(下略)」とあったものが、大宝四年(七〇四)の国印制定にともなって「信濃」と改称された。これは、「三野(みの)」「御野」が「美濃」に、「上毛野(かみつけの)」が「上野(こうずけ)」、「下毛野」が「下野(しもつけ)」と改称されたことと同様である。


写真20 「科野国」「伊奈評」の表記がみえる藤原宮出土木簡
(奈良国立文化財研究所蔵)

 つぎに評名ないし郡名であるが、さきにふれた「伊奈評」の「伊奈」が「伊那」としてみえる初見は、天平(てんぴょう)十八年(七四八)の正倉院布袋墨書銘(ぼくしょめい)である。「諏訪」の場合は表記が多様で、「須波」(『日本書紀』持統五年(六一九)条)・「州波海」(『古事記』上巻)・「諏方国」(『日本書紀』養老五年(七二一))・「須芳」(『令集解(りょうのしゅうげ)』古記)・「諏方」(『続(しょく)日本後紀』承和(じょうわ)九年(八四二)条)、「諏波」(『延喜式』巻二十八)などとみえる。「筑摩」は『日本書紀』天武十四年(六八五)条に「束間温湯」とみえ、奈良時代以前は「束間」評(郡)であった可能性があったが、屋代木簡三六号・一〇二号で「京間郡」の表記がはじめて確認された。「筑摩」の表記の初見は、年紀が明らかなものでは、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)四年(七五二)の正倉院麻布墨書銘である。「安曇」の場合は、天平宝字(ほうじ)八年(七六二)の正倉院布袴(ぬのはかま)墨書銘に「安曇」とみえるのが初見である。

 「更級」は八世紀初頭の屋代木簡一五号・六〇号に「更科」とみえ、「更級」の表記がはじめて確認できるのは天平二十年(七四八)の正倉院文書である。なお、八世紀初頭(七一〇年代)の平城京木簡(長屋王家木簡)に「播信郡五十斤・讃信郡七十斤 合百廿斤」と記した荷札木簡がある。ここにみえる「播信郡」「讃信郡」はそれぞれ「埴科郡」「更級郡」のことと考えられている。なお、この荷札木簡は、更級郡と埴科郡から長屋王家に物品(薬草の大黄か)が納められたことを示しているが、二つの郡からの納入物がひとつの木簡に記されている点は注目される。すなわち、更級・埴科二郡の物品がひとつにまとめられて納められたことを示しており、もともとこの二郡が一体的な関係のものであった可能性を示していると考えられる。国・郡・里の地方行政制度が決められたのは大宝元年(七〇一)で、郡・里名に好字を付けることが命じられたのが和銅(わどう)六年(七一三)である。長屋王家木簡はおおよそ七一五年前後のものと考えられている。「埴科」「更科」をはじめとする郡名表記もこの好字令で決められたものと考えられるが、長屋王家木簡の事例は、なお郡名表記が定着していなかったことを示している。ちなみに、同じ平城京木簡(長屋王家木簡)のなかに「信濃国埴科郡御贄鮭卌(みにえさけしじゅう)隻」とみえ、同時期でも異なった表記が用いられている。

 「水内」は、『日本書紀』持統五年(六九一)条に「水内神」、天平勝宝二年(七五〇)の正倉院布袋墨書銘(写真21)に「水内」とみえる。「高井」も藤原宮木簡で「高井郡」とみえる。「水内」「高井」の表記は早くから定着していたものと思われる。「小縣」は天平十三年(七四一)の正倉院布袋に「少縣」、正倉院紐心麻綱に「小縣」とみえる。「佐久」は、八世紀初頭と推定される須恵器片刻書銘(中野市清水山窯跡)に「佐玖」とみえ、仁寿(にんじゅ)三年(八五三)の大般若経(だいはんにゃきょう)奥書銘(和歌山県小川八幡神社所蔵)に「佐久」とみえる。


写真21 天平勝宝二年の布袋墨書銘。「水内郡」の表記がみえる
(正倉院宝物)

 このようにみてくると、郡名表記は七世紀末・八世紀初頭から前半ごろ、評制、郡里制、郡郷里制が施行されていた時代までは、現在と異なる表記が多くみられるが、八世紀半ば前後以降、おそらくは七四〇年ころから始まった郡郷制への移行を契機に平安時代の『和名抄』にみられる表記へ、そして現在へと通じる表記へと変化し定着していったものと推定される。

 つぎに、善光寺平を中心に郷里名表記について見てみよう。屋代木簡によって八世紀初頭前後から八世紀の二十年代(郡里制下および郷里制下)にいたる行政地名が確認できるようになった。まず埴科郡では、七〇一年から七一七年ごろの郡里制下でこれまで知られなかった「余戸(あまり(る)べ)里」があったことが知られる。また、七一七年から七四〇年ごろの郷里制下では、「伊蘇(いそべ)郷」「大穴郷高家里」「船山郷」「船山郷柏村里」「船山郷井於里」「屋代郷」「倉科郷」などの多くの郷里名が確認できた。とくに郷里制下の里名はこれまで知られていなかったものである。

 更級郡では、「等信郷」が確認できる。さらに、さきにふれた「□間郡束□」の木簡は「京間郡京間郷」である可能性があり、束間(筑摩)郡に『和名抄』段階ではみられない「束間郷」があった可能性がある。長野市域とかかわりのある木簡としては、「尾張マ(おわりべ)□」(屋代木簡一一八号・写真22)と記されたものがある。これは尾張部という部姓を負う人びとが八世紀前半にいたことを示している。「尾張部」は市内西尾張部(古牧)・北尾張部(朝陽)の地名として残り、これを『和名抄』にみえる水内郡尾張郷の遺称地と考え、水内郡に尾張部を称する人びとがいたと考えてきた。この木簡の出土により同時代の史料から「尾張部」を負う人びとが存在したことが確認できたのである。


写真22 屋代遺跡群出土118号木簡。「尾張部□」と記されている。
長野県埋蔵文化財センター提供