長野市域の出土文字資料

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ところで、長野市内の出土文字資料についてみるとその特徴は、九世紀にさかんに集落祭祀(さいし)の一環としておこなわれる一字墨書を除くと、刻書(ヘラ書き)土器の割合が多いということである。まず『和名抄』の水内郡大田郷か芋井郷に属すると思われる若槻地区の古屋敷遺跡で、「山田里」と刻まれた刻書土器が出土している。時期など詳細は不明だが、これが郡里制下の里名だとすれば、『和名抄』段階の郷名として継承されなかった「里」が、大田里(郷)ないし芋井里(郷)の付近に存在したことになり、また郷里制下の里名であるとすると、「大田(芋井)郷山田里」の存在を示す。

 つぎに、更級郡に属する篠ノ井塩崎の塩崎遺跡群(第一次・塩崎小学校地点)の掘立柱(ほったてばしら)建物跡から、「専司」とヘラ書きされた奈良時代と推定される須恵器が二点出土している。ヘラ書きは、土器を焼く前におこなうから、焼成地において記したことを意味する。使用される場や機関を想定してヘラ書きしたと考える余地もあるが、焼成地におけるなんらかの機関を意味すると考えることもできる。なお、陸奥国の国府である多賀城跡(宮城県多賀城市)をはじめ各地の国府跡ないし国府推定地から、「曹司(そうし)」と読むことのできる墨書土器が見つかっている。「曹司」とは、都や国府などの役所の建物を意味するから、専司もそうした役所のひとつと考えることができるのではないか。

 このほかに、松代・四谷遺跡(清野小学校地点)からは平安時代の刻書須恵器「松井」が見つかっている。元亨(げんこう)元年(一三二一)三月十八日の日付を有する妙法蓮華経の奥書に、この経典を施入(せにゅう)した「英田(あがた)庄松井住 藤原正長」の名がみえる。中世の埴科郡英多庄に「松井」とよばれる集落(村)があったことがわかるが、この刻書土器は、さかのぼって平安時代にも「松井」とよばれる地が存在したことを示している。なお、松代・屋地遺跡(第一次調査)からは、「足立女」と記された刻書土器が出土している。さらに、芹田(せりた)東沖遺跡からは、「市村」と墨書された八世紀はじめの須恵器が出土している(写真23)。遺跡付近は中世の市村高田庄の地であり、遺跡周辺には現在でも市村(北市・南市)の地名が残る。この墨書土器は、すでに古代から「市村」の地名が存在したことを示している。


写真23 墨書土器「市村」
長野市埋蔵文化財センター提供

 平安時代にさかんにおこなわれるようになる集落での祭祀にともなう墨書土器も、長野市域で大量に見いだされるようになってきている。長野自動車道の篠ノ井遺跡群は弥生時代からつづく集落遺跡であるが、そこでは奈良時代にヘラ書きの「更」が登場し、九世紀までヘラ書きないし墨書の「更」が書きつづけられる。いっぽう、「更」の墨書土器は九世紀になって登場し、九世紀半ばに最盛期を迎え、九世紀の末には急減し終焉(しゅうえん)に向かう。こうした変遷は、松本平の発掘調査で明らかになった傾向と一致する。なお、「大半(おおとも)(大伴ヵ)」と記された銅製の丸印も出土している(写真24)。私印は、九世紀の拠点的集落から出土することが多いが、その多くは方印で、このような丸印は類例がほとんどない。私印は九世紀に有力者が私的支配を拡大しつつ地方行政の一端をもになうようになったことを象徴するものと考えられており、隣接する塩崎遺跡群などの性格とあわせて周辺に官衙(かんが)的な施設の存在を想定することもできる。上信越自動車道の榎田(えのきだ)遺跡(若穂綿内)からは平安時代前期の「乙貞(おとさだ)」と記された墨書土器が見つかっている。この遺跡の墨書土器のほとんどが「乙貞」で占められており、その書体の分析から、八人以上の書き手によって記されたものであると推定されている。この遺跡からは、収穫物の数量を日記風に記した九世紀の木簡や、「甕(かめ)」字を四つ記した斎串(いぐし)状の木簡も見つかっている。この遺跡が郡ないし郷の収納施設と関係した遺跡である可能性を示している。


写真24 銅印「大半(大伴)」(実測図)(反転)
長野県立歴史館提供

 市内およびその近辺からは私印の出土が多い。前にふれた篠ノ井遺跡群のほか、南宮遺跡(篠ノ井東福寺)からは「宗清」と記された陶製の私印が出土しており(本章第四節一参照)、また更埴条里遺跡(更埴市)からは銅製の「王強私印」が出土している。なお、昭和初期に「元」と記された銅製の私印が川中島から出土したと伝えられている(次項参照)。

 このほかに県内では、松本市三間沢川(みまざわがわ)左岸遺跡から銅製の「長良私印」が出土し、また南佐久郡臼田町には江戸時代に出土したといわれる銅製の「物部(もののべ)楮丸」が伝わる。石製の印としては、佐久市聖原遺跡から「伯万私印」が出土している。さらに諏訪大社下社には銅製の「賣神祝印」が伝わり、重要文化財に指定されている。こうした私印は全国の時代のわかるものでみると、平安時代前期(九世紀)のものであることが多く、九世紀に登場する富豪層の地方行政への関与を示すものと考えられている。県内で知られる私印の半数以上が善光寺平から出土している点は注目され、こうした富豪層がこの地域で活発な活動を展開したことを示すものと考えられる。