科野の牧の始まり

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日本列島で馬が乗用に利用されるようになるのは、中期古墳の副葬品として馬具が出土することから、五世紀ころと考えられている。これは、四世紀末以降、朝鮮半島で、騎馬・騎兵戦法を得意とする高句麗(こうくり)との軍事的対立を背景に、渡来人(とらいじん)らにより乗馬術、馬具の製造法、馬の飼育法、牧(まき)の経営法などが急速に日本列島に広まったことによると考えられている。ヤマト王権は畿内豪族配下の騎兵に加えて、科野(しなの)など牧の経営に適した地形と気候をもつ東国を中心に、国造(くにのみやつこ)配下の騎兵を再編成し、朝鮮半島に軍事的な進出をはかった。

 科野では、現在の飯田市の新井原(あらいはら)一二号墳・高岡一号墳・畦地(あぜち)一号墳を中心とした座光寺(ざこうじ)古墳群から馬具の副葬品が多数発見されることから、遅くとも六世紀には、伊那谷(下伊那地域)で馬を飼育し乗用に利用するようになったといわれてきた。ところが平成十年(一九九八)に発掘された飯田市の宮垣外(みやがいと)遺跡から五世紀のものと思われるほぼ一頭分の馬の骨が発見されたことから、それは確実に五世紀にまでさかのぼることとなった。当時の下伊那地域の有力豪族は金刺舎人(かなさしのとねり)氏といわれるが、この一族は駿河(するが)国(静岡県)にも分布しており、伊那谷と並んで静岡県の天竜川流域にも馬具の副葬品が他の地域に比べ多数発見されている。五世紀に天竜川沿いに駿河を経由して科野に乗馬や牧の文化が入ってきたと思われる。


写真25 宮垣外遺跡出土の馬の骨
飯田市教育委員会提供