律令制以前においても、情報の速やかな伝達など交通政策上の理由と騎馬の調達などの軍事目的のために、馬が飼育されてきたが、それは在地の有力氏族による経営が中心であった。科野では、金刺舎人氏が下伊那地域のみならず、更級・水内などにも勢力基盤をもっていたことから、北信四郡地域でも、同氏を中心に、遅くとも六世紀ごろから馬の飼育など牧の経営がおこなわれたと推定されている。そして騎兵が国内の戦いで重要な役割を果たしたのが、六七二年の壬申(じんしん)の乱であった。東国から動員された豪族配下の騎兵が勝敗の帰趨(きすう)を決したこと、すなわち騎兵と思われる「甲斐の勇者」や「信濃(科野)の兵」の活躍が大海人皇子(おおあまのみこ)(天武天皇)側の勝利に大きく貢献したことは、『日本書紀』天武紀(壬申紀)や『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に引く「安斗智徳(あとのちとこ)日記」により明らかである(第二章第三節三参照)。
天武天皇はこの勝利により、騎馬の重要性を認識し、騎兵隊の整備をはかるため、騎馬を供給する牧を豪族層にゆだねるのではなく、直接把握し、国家的に管理することをめざした。その結果、天武・持統朝には馬の確保と騎兵の強化策がすすめられた。しかし、実のところ律令国家による牧の管理・経営は、八世紀はじめにおいても、郡司など在地有力者層による牧経営があってはじめて機能したのが実情であった。文武(もんむ)天皇四年(七〇〇)三月に、律令制にもとづく牧(令制の牧)の設置が命じられるが(『続日本紀』)、これは以前から存在した畿内周辺の朝廷の牧や各地の有力豪族が経営していた牧が、律令国家の牧として把握されるようになったにすぎず、実質的な経営はそのまま有力豪族にゆだねられていたのであった。