中央・地方の牧官司と馬の用途

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養老二年(七一八)の養老律令のなかの養老職員令(しきいんりょう)(大宝官員令もほぼ同じか)によれば、中央には、全国の牧や国家および民間に所有される馬を管轄する官司(かんし)(役所)とし兵馬司(ひょうめし)があり、地方で飼育され中央に貢上(こうじょう)された馬の飼育をおこなった官司として左右馬寮(めりょう)があった。地方の牧の管理と経営は国司が最終的な責任者であったが、国内の各牧ごとに、牧の管理や実務にあたる牧長(ぼくちょう)(責任者)や牧帳(ぼくちょう)(事務・書記役)が各一人おり、一群とよばれる馬一〇〇疋(ぴき)ごとに牧子(ぼくし)(担当者)が二人おかれている。その下には、規定外だがじっさいに日常的に馬の飼育にあたった人びとがいたと思われる。このうち牧長には郡領(ぐんりょう)(郡の大領・少領)が就いており、当初、先に述べたように令制の運営の牧は郡司の私的な経営の上に成りたっていたと考えられている。

 地方の牧で飼育された馬のうち、乗用に適しかものは郡単位に設けられた軍団に送られ、富裕な兵士の家で養われたり、京に送られた。京から遠い国の牧から送られてきた馬を飼養する場として畿内近国の牧(のちの近都牧(きんともく))が利用された。牧馬は京に貢上されると、左右馬寮の管理下に入り、馬寮からは、宮内の警固にあたる五衛府(ごえふ)の官人の乗用に供された。このため、地方の牧と馬寮との連絡は密接におこなわれるようになったらしい。