長屋王家木簡にみえる信濃の牧史料

371 ~ 372

平城京左京三条二坊の長屋王家の邸宅跡で発見された「長屋王家木簡」のなかには、八世紀前半における信濃の牧との関係をうかがわせるつぎのような木簡が見える。

(表)御馬司(みまのつかさ)信濃一口(こう) 甲斐(かい)一口 上野一口右

(裏)四米四升 五月二日 [「受板マ(部)/黒万呂(くろまろ)」]


写真26 長屋王家木簡(「御馬司」木簡)
奈良国立文化財研究所提供

 この木簡によれば、長屋王家の家政機関のひとつである「御馬司」で馬の飼育に従事するため信濃・甲斐・上野から派遣された人物がおり、食糧を受けとっていたことが知られる。別の木簡によれば、「木上(きのへ)御馬司」と見えるから、長屋王家の御馬司は大和国(奈良県)木上にあったと考えられている。「木上司」から長屋王邸に米が送られていることを示す木簡もあり、木上には倉庫を有する御田(みた)もある。長屋王の父高市皇子(たけちのみこ)の殯宮(ひんきゅう)(「城上宮」)も設けられていることから(『万葉集』巻二-一九六~二〇二、巻一三-三三二四~三三二六)、もともと長屋王家にかかわるかなり大規模な家政機関があったらしい。その所在地については、現奈良県北葛城(きたかつらぎ)郡広陵(こうりょう)町大塚、明日香(あすか)村大字飛鳥小字木部、などの諸説があったが、先に述べたように桜井市上之庄の木部なる小字が有力な遺称地として浮上してきたことから、『日本書紀』武烈三年条など「信濃国男丁」や「城上」に関する一連の記事の信憑性も高まってきており、「木上」=「城上」とすると六世紀はじめころ、「城上(=木上)」の地に科野から「男丁」が徴発されて以来の関係が信濃(科野)と「木上」とのあいだで形成されたと考えられる(詳細は第二章第三節二参照)。

 さて、木上にあったと思われる長屋王家の「御馬司」で飼育されていた馬の世話をするための人を派遣した信濃・甲斐・上野の三国は、九世紀前半に御牧(みまき)が設定されていた四国のうち武蔵を除く三国に重なる。このことは決して偶然ではなく、八世紀前半ころからすでにこれらの諸国が良馬の産地として卓越した飼育技術をもっていたことをうかがわせる。また、信濃の牧に関していえば、当時の皇親や貴族の家政機関と信濃の牧とのあいだに、馬の貢納から飼育まで密接な関係があったと考えられる。長屋王の父は天武天皇の子高市皇子で、壬申の乱において天武天皇を助けて活躍したことで知られる。この木簡にみえるような長屋王家の「御馬司」と信濃の牧との関係は、七世紀末に形づくられていた高市皇子の家政機関と科野の牧との関係、さらに壬申の乱において勝敗の帰趨(きすう)を分けた科野の騎兵の活躍以来築きあげられた高市皇子と科野の牧との関係までさかのぼる可能性があろう。