内廏寮・御牧の出現と信濃国牧主当

373 ~ 374

八世紀後半になると中央政府内の政変や牧馬の生産のさかんな特定の地域から中央政府に騎乗用の馬を供給するため、馬関連の中央官司の改変や再編成がおこなわれた。その契機となったのが、天平宝字(てんぴょうほうじ)八年(七六四)におこった藤原仲麻呂(なかまろ)(恵美押勝(えみのおしかつ))の乱である。乱後の天平神護(じんご)元年(七六五)二月、中央の軍事機構から仲麻呂色を拭い去り、軍事面において騎兵を重視し、安定的な騎馬の供給を確保するため、中央の牧関連官司として内廏寮(ないきゅうりょう)が新設された。これは令制の左右馬寮の姉妹官司であるが、のちに御牧とよばれる所管の牧をもっていたところに特徴があり、天皇直属の官司であったらしい。その牧がはじめておかれたのが信濃国であり、その経営にかかわった人物が伊那郡司の金刺舎人八麻呂(かなさしのとねりはちまろ)であった。

 『続日本紀』天平神護元年正月己亥(つちのとい)(七日)条によれば、この日天平宝字から天平神護への改元にあたり、正六位上の金刺舎人八麻呂に外(げ)従五位下・勲六等が授けられた。この叙位・叙勲は、前年天平宝字八年におこった藤原仲麻呂の乱での活躍にたいする論功行賞である。『類聚三代格(るいじゅさんだいきゃく)』に収める弘仁(こうにん)三年(八一二)十二月八日付の太政官符(太政官の命令)が引用する神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)正月二十八日の「格(きゃく)」(法令)に「信濃国牧主当(まきのしゅとう)・伊那郡大領(たいりょう)・外従五位下・勲六等・金刺舎人八麿(麻呂)」とあり、かれが内廏寮に「解(げ)」(上申書)を提出していることが見える。八麻呂は伊那郡の長官(大領)であるとともに、「信濃国牧主当」という職務にあった。この「牧主当」とは、内廏寮所管の牧(のちの御牧(勅旨牧(ちょくしまき)))の責任者である。

 八麻呂は、欽明(きんめい)朝ころに設けられた金刺舎人に由来し、科野国造氏の系譜を引く伊那郡の譜代の郡司と考えられている名族金刺舎人氏出身で、郡司の子弟であったため天皇近辺の警護、平城宮の門の守衛や内裏の宿直(とのい)などを任務とした兵衛(ひょうえ)として朝廷に仕えていた。仲麻呂の乱がおこったとき孝謙上皇側に加わり、乱の鎮圧に功績があったと考えられている。叙位・叙勲後、ほどなく故郷の伊那郡にもどり、郡の大領に就任するとともに、信濃国におかれた新設の内廏寮が所管する牧の管理・経営の責任者にもなった。