ちょうどそのころ、中央政府では、さまざまな面において律令制支配のゆきづまりや矛盾が噴出してきており、各地の牧でも、中央に貢上(こうじょう)される馬の質が低下したり遅延したりし、さらに規定の繁殖数を確保できない事態が生じていた。中央政府は、良馬が多く産出される地域に牧を集中し、生産から飼育まで一貫して管理経営する御牧を中心に騎馬を確保する方針に転換し、牧にかかわる中央官司の再編やそれに直結する地方の牧(御牧)の拡大整備をすすめた。中央では、左右馬寮と内廏寮の三寮鼎立(ていりつ)をやめ、宝亀(ほうき)十年(七七九)九月から天応(てんおう)元年(七八一)五月のあいだに、まず左右馬寮を主馬寮(しゅめりょう)に統合した。主に近衛府系官人が任官する内廏寮と、主に中衛府系官人が任官する主馬寮がしばらく並存し、両寮はほぼ同等の性格をもっていたらしい。しかし、大同三年(八〇八)正月二十五日には、内廏寮と主馬寮は兵馬司を併合したうえで再編され、内廏寮と主馬寮の両寮の名称もふたたび左右馬寮にあらためられた。このとき、畿内や信濃などの諸国に広大な馬寮田(めりょうでん)が設けられ、財政基盤も強化された。こうして権能も広がった新たな左右馬寮が誕生したのであった。
いっぽう、信濃国の牧(御牧)の主当は当初、伊那郡大領が兼任していたから、飯田市座光寺の恒川(ごんが)遺跡群を有力な推定地とする伊那郡家(ぐうけ)内に管理施設が付随していたらしい。恒川遺跡群内には、「主馬殿垣外(かいと)」という小字名がかつてあった。それが、大同三年まで内廏寮と並存した主馬寮にちなむ地名であるとすれば、主馬寮にかかわる行政施設が伊那郡家内におかれていたことが想定できる。
延暦(えんりゃく)十六年(七九七)の太政官符(『類聚三代格』)には、信濃国の牧に関する政務の責任者である「監牧(けんもく)」の「公廨田(くがいでん)」六町が筑摩郡の埴原(はいばら)牧(松本市)に設定されていることが記され、当時、信濃国府が存在した筑摩郡内に「監牧」の施設があったことが想定されている。伊那郡家内におかれたとみられる主馬寮関係の行政施設は、国府近辺におかれた「監牧」施設の先駆形態と思われる。「監牧」は天長(てんちょう)元年(八二四)の太政官符により、二人から一人に減員し、任期も六年とし、交替のさいは任期中不正がなかったことを新任者が証明する文書(解由(げゆ)状)の提出を求められた。天長四年ころになると「牧監(もくげん)」と改称され、信濃では天安(てんあん)二年(八五八)に一人増員された。信濃国の牧(御牧)では、管理統括者の拠点施設が伊那郡家から信濃国府近辺に移動したことにより、八世紀末から九世紀初頭にかけて、郡司など在地の有力豪族を中心とした牧の経営から、国司や「監牧」(「牧監」)など中央からの派遣官を中心とした経営へという、大きな変化があったと推定されている。
八世紀末から九世紀中ごろにかけて、地方にある令制の牧は経営不振になり、各地の牧を均一的に経営するのではなく、しだいに地域ごとに役割分担が定められていき、①「諸国の貢する繋飼(つなぎがい)馬」を貢上する諸国牧(官牧)、②左右馬寮所管の御牧(勅旨牧)、③御牧から貢上した馬を飼育する近都牧に分化していったと考えられている。このうち、信濃・甲斐・上野・武蔵の四ヵ国には三二牧におよぶ御牧が設置され、信濃・甲斐両国の御牧は左馬寮が、上野・武蔵は右馬寮がそれぞれ管轄し、毎年八月に二四〇頭の馬が貢上された。