御牧の経営と課欠の発生

375 ~ 376

当時の御牧の経営については、『長野県史』などこれまでの研究により、つぎのように説明されている。御牧には、牧長・牧帳・牧子のほかに、馬医・書生(しょしょう)・騎士が所属した。騎士は牧馬の調教をおこなった。世話係として飼丁(しちょう)・馬子(まご)・居飼(いかい)などがおり、飼料となる草を刈る穫丁(かくちょう)などもいた。他の私牧の馬と識別するための焼印を押す作業、放牧した牧馬の廏舎(きゅうしゃ)への追いこめ、いたんだ牧柵(ぼくさく)の修理などには、周辺の農民や牧内に居住している浪人が動員されたらしい。信濃などの御牧では、早春に牧の枯れ草を焼く野焼きがおこなわれたが、野焼きをおこなう牧では牧場内に放し飼いにすると、馬が焼死する可能性があることから、冬から春にかけては、牧柵内で放し飼いすることはなく、廏舎や近在の家に預けるなど牧柵外ですごしたと考えられている。初夏になるとふたたび牧柵内に放し飼いされ、牝馬(めうま)が発情する初夏に繁殖がおこなわれた。夏から秋にかけて牧柵内で放牧された牧馬は、秋の終わりに国司の立ち会いのもと「官」の焼印を左後脚に押され、毛色や年齢・性別などを登録する作業がおこなわれ、それらは繁殖結果とともに中央に報告されたらしい。優秀な馬は調教をへたのち、翌年の八月に牧監に率いられて都に貢上された(『県史通史』①参照)。

 地方の牧においてもっとも重要なことは、馬を繁殖させることであった。「養老廏牧令」によれば、各地の牧では、牝馬は四歳で「遊牝(ゆうひん)」(交尾)させ、五歳のときに繁殖させる義務があり、このことを「責課(せきか)」といった。毎年ノルマとして、一群一〇〇疋につき六〇疋の駒を増やさなければならなかった。種付けにより六割の繁殖率を達成しなければならない。その法定数以上の繁殖に成功すると、駒二疋増やすごとに牧子に稲二〇束があたえられ、牧長・牧帳にも褒賞の稲が支給された。反対に「課欠(かけん)」といって繁殖の基準数に足りない場合、不足数にしたがって、牧子(ぼくし)らに笞(むち)や杖(つえ)でしりを打つ刑罰や徒(づ)とよばれる懲役刑などきびしい肉体刑が科せられた。複数の牧を管理する牧長・牧帳は国司や郡司の牧担当者とともに、所管する牧の「課欠」数を通算して罪が科せられたが、じっさいには位階をもっているかれらは贖銅(しょくどう)といって銅を支払い実刑を免れていたので、「課欠」により実刑を科せられたのはもっぱら牧子(百姓(ひゃくせい))であった。