課欠駒対策と信濃の牧

377 ~ 378

内廏寮直轄の牧がおかれた信濃では、牧馬が繁殖規定数に不足する「課欠駒(かけんのこま)」の問題は、金刺舎人八麻呂が牧主当になったころからすでに発生しており、「課欠」により実刑をうけて苦しむ牧子(ぼくし)や逃亡する牧子が増加していったらしい。先に述べた『類聚三代格』によれば、神護景雲元年(七六七)八麻呂は地域を代表して、所管の内廏寮にたいして、「課欠」の場合は実刑を科すのではなく、代価を徴収してほしいと上申した。八麻呂の上申書は、「廏庫律(きゅうこりつ)」の規定を守るべきであるとして翌神護景雲二年却下されるが、その後も「課欠駒」の問題は、律令国家の牧政策上の大きな問題となっていたらしく、延暦(えんりゃく)二十一年(八〇二)には「課欠駒」は馬を徴収する方式となったが、翌二十二年には「課欠駒」一疋につき稲四〇〇束を徴収するとされた。弘仁(こうにん)三年(八一二)には二〇〇束に減らされた。こうして八麻呂の策は、半世紀をへて実現されることになった。ところがそれでも状況は改善されず、天長(てんちょう)元年(八二四)には牧子が苦しみに耐えられず他郷に逃げてしまい、信濃国の牧がもっともひどい状況であることが報告され、さらに減らして「課欠駒」一疋ごとに一〇〇束とした。その後も国司政務引き継ぎ上の手続きを定めた貞観(じょうがん)十年(八六八)撰(せん)の『貞観交替式』や延喜(えんぎ)二十一年(九二一)撰の『延喜交替式』にも受けつがれているが、延長五年(九二七)撰の『延喜式』の「左右馬寮式」では、七〇疋に減らされている。

 このように中央政府の牧政策の変更や決定にたいして、信濃の御牧の責任者による地元を代弁した罰則変更の申請や信濃の御牧における牧子の抵抗が、こうした影響をあたえたことが知られる。