信濃の御牧と北信濃の牧

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信濃の御牧から貢上された馬にかかわる儀式として駒牽(こまひき)という年中行事があった。御牧(勅旨牧)から牽いてきた貢馬を朝廷で天皇が見て、臣下(しんか)に引き渡す儀式である。毎年八月、各国の牧ごとに定められた日に、京に到着した貢馬を内裏(だいり)の紫宸殿(ししいでん)南庭に引き入れ検閲したあと、牽分(ひきわけ)といって左右馬寮や参会した王や公卿(くぎょう)に分配する儀式である。信濃からは八月十五日から諸牧の六〇疋、二十三日には望月(もちづき)牧の二〇疋の合計八〇疋が貢上され、他の国々の駒牽が衰退するなかで中世になっても続けられ、都の人びとに信濃を駒の産地として大いに印象づけた。平安時代のみやこびとが好んだ信濃の駒は、いったいどこの牧で飼育されたのであろうか。


写真27 望月牧の野馬除跡の湟と土塁(北御牧村大原地点)
北御牧村教育委員会提供

 古代信濃の御牧は『延喜式』の「左右馬寮式」に、「山鹿牧(やまがのまき)・塩原牧・岡屋(おかのや)牧・平出手(ひらいで)牧・笠原牧・高位(たかい)牧・宮処(みやどころ)牧・埴原(はいばら)牧・大野牧・大室(おおむろ)牧・猪鹿(いか)牧・萩倉(はぎくら)牧・新治(にいはり)牧・長倉牧・塩野牧・望月牧」と一六の牧が記載されている。いっぽう、『吾妻鏡(あずまかがみ)』文治(ぶんじ)二年(一一八六)二月十二日条に引用されている同年二月の「注文」によれば、左馬寮領の牧で年貢未済となっているものに、「笠原御牧・宮所・平井弖(ひらいで)・岡屋・平野・小野牧・大塩牧・塩原・南内・北内・大野牧・大室牧・常盤(ときわ)牧・萩金井・高井野(たかいの)牧・吉田牧・笠原牧南条・同北条・望月牧・新張牧・塩河牧・菱野(ひしの)・長倉・塩野・桂井(かつらい)・緒(猪)鹿牧・多々利(たたり)牧・金倉井(かなぐらい)」の二八の牧がみえる。このとき未済でなかったため除かれた牧に「信濃国中野御牧」がある(『吾妻鏡』元暦(げんりゃく)元年(一一八四)二月二十一日条)。これらの牧は、火山のすそ野や扇状地上に位置し、とくに伊那郡・高井郡・佐久郡に多い。


図2 信濃(北部)の牧の分布 (『県史通史』①)

 このうち、北信四郡に存在したと考えられている牧は、笠原牧・高井牧・大室牧・吉田牧・常盤牧・金倉井牧・中野牧である。これらの牧の推定地はつぎのようである。

 まず、笠原牧は、『延喜式』には「笠原牧」とあるのみだが、『吾妻鏡』には(笠原御牧、(中略)笠原牧南条、同北条」とみえ、推定地は伊那郡(現伊那市笠原)と高井郡(現中野市笠原)の二説ある。『吾妻鏡』に三ヵ所みえるうち、おそらく「笠原御牧」が伊那郡、「笠原牧南条・同北条」が高井郡にそれぞれ所在した牧であろうと考えられている。笠原牧は、俗に「高井富士」と称される高社山(こうしゃさん)(標高一三五一・五メートル)の南すそ野にあるため、積雪量も少なく牧としては最適地であった。平安末期から鎌倉初期には南条と北条に分かれて経営されていた。この牧には、式内社として笠原神社があり、牧司として笠原氏が栄えたといわれている。

 高井牧については、『延喜式』の「高位牧」がそもそも「タカイ」と読めるかについてかなり問題があるが、『吾妻鏡』に「高井野牧」があるので古代から中世前期に「高井牧」があったことはほぼ確実で、現上高井郡高山村駒場(こまんば)・牧付近一帯がその推定地とされている。中野牧は中野市に比定されており、平安時代末の文献に中野郷として出てくる地域と同じかと推定されている。金倉井牧は下高井郡山ノ内町寒沢(さむさわ)地区に推定されている。この地は、三沢山(標高一五〇四メートル)に連なる山地に囲まれ、伊沢(いさわ)川に沿って西に傾斜した地である。常盤牧は飯山盆地の千曲川西岸から関田山脈東面一帯をふくむ地域とみられ、中央を南北に長峰丘陵が通るかなり広範囲の牧と推定されている。

 現長野市域と考えられているものに、大室牧と吉田(桐原)牧がある。大室牧は松代町大室地区に推定され、千曲川東岸に位置し、積石塚古墳で知られる大室古墳群と一部は重なる地域である。西に続く牧島(松代町)や千曲川西の真島(更北真島町)、北方の牛島(若穂)は、千曲川の流路変更の関係で大室牧にふくまれていた時代があったとする説もある。

 吉田は、善光寺東方の浅川扇状地上に位置するが、ここを『北山抄(ほくざんしょう)』応和(おうわ)元年(九六一)にみえる後院領桐原牧とみる説があり、『長野県の地名』(平凡社)によれば桐原の地名とともに吉田の古名があること、宇木(うき)の地名、駒形社の存在、駒沢の地名があることを理由にあげている。しかし、『長野県史』のように桐原牧を「屏風(びょうぶ)絵に描かれた駒迎えの絵柄で、霧原(桐原)牧のつもりで詠んだ幻の牧場名ではなかったかと想像」する説もある。


写真29 駒形嶽駒弓神社 (上松)

 以上のように、常盤牧と所在について議論のある吉田(桐原)牧が水内郡であるほかは、すべて高井郡に古代の牧が存在すること、つまり千曲川東岸に牧が多いことは興味深いことである。


写真28 桐原牧神社 (吉田桐原)

 ところで、『大和古印印譜(いんぷ)』によれば、明治時代に東京の野中完一が旅行をしたさいに、「長野市外千曲川犀川の落合の所謂(いわゆる)史跡なる川中嶋にて」、はからずも「元(げん)の古印」を拾得したとして、「元」の一字のみの古印を取得したことを記している。現在、実物は所在不明であるが、一字の印影や近年の焼印の発掘例を検討すると、これは牧で馬に押した焼印である可能性が高い。川中島の古戦場で発見されたらしく、この地は、千曲川を渡れば大室牧にも近いことから、牧において馬の検印に用いられたものとするとたいへん興味深く、さらなる検討が待たれる。