東山道と古代の交通路

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六四六年に発せられた「改新の詔(みことのり)」によれば、交通制度に関して駅馬と伝馬をおくこととされている。しかし、駅馬や伝馬が大化の改新当時にただちに整備されたものかどうかについては疑問が出されている。これらの駅伝制が体系的に整備されたのは、八世紀初頭の大宝律令・養老律令によってであろう。これらによれば、首都圏として畿内(きない)を置き、全国を東海・東山(とうさん)・北陸・山陰・山陽・南海・西海(さいかい)の七道に分け、それらをつらぬく官道(駅路)を開いた。山陽道と西海道の一部からなる大宰府(だざいふ)道を大路として二〇疋、東海道・東山道は中路として一〇疋、そのほかの諸道は小路で五疋の駅馬を各駅におき、駅家(うまや)(えきか)は三〇里(約一六キロメートル)を基準におくこととされた。駅家の維持のために駅田(えきでん)がおかれ、そこからの駅稲(えきとう)が財源になった。駅馬は駅戸が飼い、また駅戸から駅子(えきし)が出て駅務にしたがった。これらを駅長が管理し、国司が監督した。駅馬は緊急連絡の馳駅(ちやく)・飛駅(ひやく)や、公文書の逓送などに用いられた。その使用は位階に応じた剋(きざみ)数の駅鈴(えきれい)の提示を必要とした。たとえば四位のものは六疋で、六剋の駅鈴を用いる。

 伝馬(てんま)のほうは郡ごとに五匹おかれ、その使用には位階に応じた伝符の提示が必要で、「伝符の剋数(きざみのかず)」にしたがって利用できる馬の数が決められていた。四位のものは一二疋で、一二剋の伝符が下付される。最近の研究では、駅制が都と国府との通信・連絡を目的としていたのにたいし、伝馬制は都からの使者の迎送制度で、駅制とは性格を異にする制度であったことが明らかにされている。伝馬制は郡を中心とした在地の交通をになったもので、駅路と伝路とは本来別のルートであった場合もあったらしい。これまで『延喜式』の「兵部省式諸国駅伝馬条」によって考察されてきたいわゆる「延喜式の官道」は、律令制当初のものではなく、これに先行する駅路が直線的計画道として建設されたこと、したがって延喜式官道にいたるまでに国府や郡家(ぐうけ)の移転などにともなってルートの改廃がおこなわれたことも明らかになってきている。善光寺平に関しても、駅路と伝路という視点からこれまでの研究を見なおすことにしよう。


図3「古東山道」のルートと「みさか」の地名
(『県史通史』①)