信濃の東山道

383 ~ 385

『延喜式』によって東山道のルートをたどると、おおよそつぎのようになる。都(平安京)から近江(おうみ)・美濃(みの)をへて東山道最大の難所であった御坂(みさか)(神坂峠)を越えた道は、信濃へと入る。御坂から伊那郡の阿智(あち)駅(下伊那郡阿智村)、育良(いくら)駅(飯田市)、賢錐(かたぎり)駅(上伊那郡中川村)、宮田(みやだ)駅(同宮田)、深沢駅(同箕輪町付近)と伊那谷を北上し、善知鳥(うとう)峠(塩尻市)を越えて筑摩郡に入る。覚志(かがし)駅から国府(松本市)をへて錦織(にしごり)駅にいたる。ここから本道は保福寺(ほうふくじ)峠(東筑摩郡四賀村)を越えて小県郡に入り、浦野(うらの)駅(小県郡青木村)をへて千曲川の渡河点である亘理(わたり)駅(上田市)にいたる。佐久郡の清水駅(小諸市付近)、長倉駅から碓氷(うすい)坂(碓氷峠または入山(いりやま)峠)を越えて上野(こうずけ)国に入る。さらに道は下野(しもつけ)から陸奥(むつ)の多賀城(たがじょう)(宮城県多賀城市)、出羽(でわ)の出羽国府へと向かう。


図4 『延喜式』の東山道
(『県史通史』①)

 いっぽう、錦織駅から本道と分かれ北陸道へつながる支道は、更級郡の麻績(おみ)駅(東筑摩郡麻績村)から善光寺平にくだり、水内郡の亘理駅(長野市)から多胡(たこ)駅(同)へと向かい、山間部に入って沼辺(ぬのへ)駅(信濃町)をへて越後国へと抜け、北陸道と合流する。

 ただ、右の駅とルートは、平安時代のある段階のルートを記したものであり、かならずしも律令制当初から同一のルートであったわけではない。むしろ信濃の場合、七世紀後半から八世紀はじめにかけて、中央政府の越(こし)の蝦夷(えみし)(えぞ)にたいする「征討」事業にさいしてはその陸路における最前線であったこともあり、善光寺平以北のルートとしては、『延喜式』のルートとは異なる千曲川に沿って北上するルートの存在も想定されている。

 この点に関して、上信越自動車道の飛山(とびやま)遺跡(豊田村)は注目に値する。古墳状に石を積み上げた遺構で、遺構の性格については明確な見解が示されていないが、石積みのなかから須恵器(すえき)片も出土していることから、須恵器が用いられた時代になんらかの施設があり、その後その施設が石積みの遺構によってこわされたものと考えられる。そこで注目したいのはこの遺跡の立地する「飛山」という地籍名である。栃木県の中世の城郭遺跡である飛山遺跡から古代の「烽家」と記された墨書(ぼくしょ)土器が見つかり、ここが古代の烽火(とぶひ)の遺跡であったことがわかった。「飛山」とは「飛火山」すなわち烽火台(ほうかだい)のあったことにちなむ地名である可能性が指摘され、他の「とびやま」「とぶやま」の呼称をもつ地名にも適応できる可能性も示された。このことから考えると、豊田村の飛山遺跡も古代の烽火台であった時期があった可能性が指摘できるのではないかと思われる。


写真30 飛山遺跡景観
眼下に千曲川をのぞむ 長野県立歴史館提供

 また、塩崎城見山砦(みやまとりで)遺跡(篠ノ井塩崎、口絵参照)は中世の見張台ないし烽火(のろし)(狼煙)台の遺跡であるが、この「見山」は「とびやま」「とみやま」「みやま」と転訛(てんか)した可能性も考えられる。この遺跡に立って東方眼下を望めば、そこには東山道支道が通過していたはずであり、官道と烽火との関連を考えることもできる。かつて一志茂樹(いっししげき)は、千曲川中流域から下流域に「ねずみ」の地名が多く分布し、「ねずみ」は「不寝見(ねずみ)」で、烽火台であった可能性を指摘した。飛山遺跡の例から、『延喜式』の東山道のルートとは別に、あるいは時期を異にして千曲川に沿った官道が存在し、それをつなぐ形で烽火台が設けられた時期のあった可能性を考えてもいいのではないかと思われる。信濃国府ないし国府関連施設が奈良時代初期に更埴市屋代遺跡群付近にあったとすれば、官道のルートも『延喜式』段階のものとは異なっていた可能性も考える必要がある。