善光寺平の駅路と伝路

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長野市域を通る東山道支道の駅家の所在地とルートについては、これまでいくつかの説が出されている。

 麻績盆地から善光寺平へくだるルートについては、四十八曲(まがり)峠、古(こ)峠、一本松峠、猿ヵ馬場(さるがばんば)峠を越える四つのルートがある。四十八曲峠を越えると更級郡村神(むらかみ)郷の地にくだるが、ふもとには『延喜式』に載るいわゆる式内社(しきないしゃ)である波閇科(はべしな)神社(上山田町)・左良志奈(さらしな)神社(戸倉町)がある。このルートは、麻績郷から村神郷へ抜け、そこから北へ行くと善光寺平、南へ行くと埴科郡坂城(さかき)郷から小県郡へと抜ける重要なルートであるが、東山道(支道)としてよりは、郡家(ぐうけ)と郡家を結ぶ伝路として機能した可能性のある道であると思われる。善光寺平へ抜けるルートとしては、古峠・一本松峠・猿ヵ馬場峠の三つのルートが考えられるが、更埴市八幡(やわた)の「郡(こおり)」地籍に更級郡家を比定できるとすると、最短で結ぶ猿ヵ馬場峠ルートが有力視されている。ただし、一本松峠のルート沿いの更埴市大池付近には平安時代の集落跡(来光寺、大池A・B、芝平遺跡)が分布し、古代では一本松峠からくだるルートが東山道のルートであった可能性も捨てきれない。このルートに沿ってくだると、ふもとの更埴市八幡地籍には条里遺構が残り、そのなかに「郡(こおり)」地籍から東へ向かう「大道(おおみち)」地名も残る。あるいはこれが官道のルートとも考えられる。一般には「郡」地籍から北西の更埴市桑原地籍を山麓(さんろく)沿いに通って、更埴市稲荷山、篠ノ井石川を通るルートが東山道ルートと考えられている。


図5 東山道推定路
東山道の分岐と麻績の四つの峠
(『県史通史』①)

 この東山道のルートを横ぎる形で長野自動車道が通り、そのための発掘調査が石川条里遺跡、篠ノ井遺跡群でおこなわれた。両遺跡からは東山道ないし伝路と思われる遺構の検出は報告されていない。千曲川左岸のこの地域をほぼ南北に東山道が通過していたことは間違いないと考えられるから、もっとも可能性の高いのは、東山道のルートが自然堤防上の旧善光寺街道とほぼ重なっているために発掘調査の対象にならなかったと考えることである。川中島平についても、かつての犀川の流路の問題や亘(曰)理駅の位置ともかかわって東山道のルートは明確になっていない。

 亘理駅から旧長野市街地へのルートについてもいくつかの説がある。まず、旧『長野市史』では、亘理駅=安茂里-裾花川-長門町-善光寺-上松-多胡駅=若槻田子というルートを想定している(A説)。『長野県史』では亘理駅=小市-安茂里-裾花川-信越線に沿うルート-多胡駅=三才(上田子・下田子)が主張されている(B説)。また、亘理駅=丹波島-近世北国街道-多胡駅=若槻田子を想定する説(C説)も出されている。なお、日理駅を犀川以南の篠ノ井付近に想定する説もある。


図6 東山道推定路
東山道支道、善光寺平の道(B説を中心に表示)
(「県史通史」①を加筆修正)

 古代の官道と近世の街道とは、全国的に見れば一致するルートもあるが、その目的の違いから根本的に違う場合もしばしばある。したがって、A説・C説は再検討の必要があり、またB説も、長野市街地の信越線に沿うルート付近に官道の通過を想定できる地割や地名が存在しない点が問題である。

 近年の研究では、条里施行地帯における官道のルートは、条里プランと密接に関係し、条里プランに沿って官道が通る場合が多いことが明らかにされている。場合によっては官道の幅が条里プランから除かれていることもあり、これは官道の施工が条里プランに先行した場合であることが明らかにされている。そこでまず、善光寺平のうち、旧長野市街地の表面条里の遺構と地名からみた駅路ないし伝路について考えてみよう。