道と条里遺構

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浅川扇状地・裾花川扇状地における表面条里について検討すると、大別して、三輪・吉田の条里(『和名抄』の芋井郷)、古牧・朝陽・柳原の条里(『和名抄』の尾張郷)、若槻の条里(『和名抄』の芋井郷または大田郷)に分けることができる(第四節二参照)。

 これらの表面条里のプランを検討すると、全体がほぼ統一的な条里プランであることが理解できる(図18参照)。その浅川以南の基準線は、北限が美和(みわ)神社(三輪)の東側から桐原神社(吉田)の南の字牧野境付近に延びる東西の道で、東西の基準は、美和神社から南へ下りる線であると考えられる。このうち北限の道路は﨤目(そりめ)(三輪)の字村西と字山道の字界となっている。この道の四町南には、東西に通称「中道(なかみち)」と称される道が通る。この中道の西には中世の善光寺の東門・本堂(現在の仁王門付近)が位置し、いっぽう中道の東は布野(ふの)の渡し(柳原)へと続いている。この道にほぼ沿うように、西和田(古牧)には「大道北」「大道南」が、東和田(同)には「大道北」「中道北」「中道南」の地名が残る。千曲川をへだてた対岸は高井郡で、須坂市塩川には「長者屋敷遺跡」が、また同市小河原(おがわら)には「左願寺(さがんじ)廃寺遺跡」が存在する。これらからは古瓦が出土し、長者屋敷遺跡付近は高井郡家の候補地として注目されている。左願寺廃寺遺跡からは善光寺境内出土瓦と同一の様式の古瓦が出土し、郡寺の存在を想定する説もある。

 こうしてみると、この「中道」は、高井郡から千曲川を渡って善光寺へと一直線につなぐ道であることが注目される。このルートをただちに古代にまでさかのぼらせることには慎重でなければならないが、北陸新幹線の建設にともなう浅川扇状地遺跡群の発掘調査で、この「中道」ルート上に古代の道の側溝と思われる溝が検出されている。したがって、このルートが中世をこえて古代にまでさかのぼるものであった可能性を考える必要がある。水内郡家の候補地である長野市県町(あがたまち)遺跡はこの中道のやや南に位置し、この道を通じて高井郡家と接続していた可能性がある。水内郡と高井郡とを結ぶ官道(伝路)として考えることもでき、条里プランにのった計画的道である可能性が高い。

 この中道から小島(柳原)付近で分かれて、三才地籍(古里)へ条里プランに沿って北上するルートが想定できる。それは、この北上のルートに沿って、古里地区の字富竹には「山道(せんどう)東」「山道西」がルートの東西に位置するからである。「山道」地名については、近江・美濃・信濃で「山道」「仙道」「先道」「千道」「千堂」など「せんどう」地名が東山道ルート上に位置することが明らかにされており、このルートが東山道(支道)のルートであった可能性がある。この場合駅路の一部を伝路が共有していたことになる。これを伝路として考えることができるとすれば、西端に位置する現善光寺仁王門(中世の善光寺本堂)ないしその付近に水内郡家(ぐうけ)が存在したと考えることもできる。善光寺前身寺院が水内郡の郡寺だとすれば、この伝路の設定は、さかのぼって水内評の評家ないしその付属寺院(白鳳の寺院)を基準に設定したことになるのではないか。以上述べたことは、現時点での仮説だが、こうした点の詳細な検討は、今後の発掘調査の成果をも加えながらおこなっていかなければならないだろう。

 浅川・裾花川扇状地の旧長野市街地には、ここでとりあげたルートにかならずしも沿わない地点にも、「道」に関係する地名が分布する。荒木(芹田)の大道西・大道東、﨤目(そりめ)の山道西・山道東・往還添(ぞえ)・往還北添・村中道西・村中道東、南堀(朝陽)の大道北・大道南、北堀(同)の中道北・中道南、金箱(古里)の大道添・北道添、富竹の大道北・大道添などである。これらのうち、金箱・富竹の「大道」は江戸時代に長沼宿へ向かう道として開かれたと思われる新しい道で(江戸初期の松代封内(ほうない)図(図22)ではこの道の部分は浅川の流路となっている)、ほかの場合も村のなかの道か、あるいは近世に開かれた道であると考えられる。