六世紀半ば、朝鮮から日本に仏教が伝わった。『日本書紀(にほんしょき)』によれば、欽明(きんめい)天皇十三年(五五二)に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)が釈迦仏(しゃかぶつ)・経論(きょうろん)などをもたらしたとされる。これが仏教の公伝(こうでん)である。ただ、この時期の『日本書紀』の記述には文章の順序の入れちがいが多く、仏教公伝の年についてはいろいろな意見がある。仏教の公伝前にも、朝鮮からの渡来人(とらいじん)によって、仏教が日本に伝わっていたと考えられている。ただ、倭(わ(やまと))王権にとって、こうした蕃神(ばんしん)(渡来した神)としての仏教を大王(おおきみ)みずから身につけるのは公伝以降である。大王の仏教崇拝をめぐって崇仏(すうぶつ)・廃仏(はいぶつ)論争が、蘇我(そが)氏と物部(もののべ)氏とのあいだで起こる。この時期における仏教は、奈良時代の国家仏教という様相をもたず、むしろ渡来系氏族などを中心として私的に信仰がひろがっていたといえよう。
善光寺の本尊は、この仏教公伝の折、百済から渡ってきた日本で最古の仏像であるとして、あるいは生身(しょうじん)の阿弥陀如来(あみだにょらい)として、古くから多くの人びとの信仰を集めてきた。こうした信仰は、仏教公伝の歴史事象を後世になってから解釈したものであり、六世紀の史実とみることはできない。善光寺についての歴史がはっきりし、その霊験(れいげん)を集めた善光寺縁起(えんぎ)が成立するのも、平安時代の終わりごろ、浄土教思想が隆盛するあたりからである(第二編第一章第一節三参照)。こうした縁起類を基調として、古代の善光寺を解釈しようとすることは問題がある。ただ、先にもふれたように、いわゆる「善光寺古縁起」は、若麻績東人(わかおみのあずまひと)による善光寺の開基(かいき)の話としている。その内容は、仏像を都から信濃に持ち帰り、その後「草堂(そうどう)」(鎌倉時代には本善堂といった)をつくり仏像を安置した。しかし「霊験」があったため、東人は自分の「宅」を寺にあらためて善光寺にしたというものである。この縁起は、他の善光寺縁起にみられるような、浄土教思想の影響をうけた部分がなく、私宅を寺にするといった氏寺(うじでら)の成立に共通する書き方になっている。このようにみると、あるいは善光寺の創建についていくらかの史実が反映されているのかもしれない。
写真31 覚禅鈔(かくぜんしょう) (京都府 勧修寺(かじゅうじ)蔵)
覚禅の編になる仏教図像集。善光寺縁起と三尊図像の記載があり、その裏書には天台宗寺門派の高僧覚忠(かくちゅう)(1118~77)が写した図を基に描いたとある。
(裏書)宇治僧正覚忠件像被奉写之、以彼正本図之
このように、従来の研究にみられる善光寺信仰の発生と善光寺の創建を同時期とするような見解は、史料の少ない状況のなかでは無理が多い。そのためここでは、善光寺の創建と善光寺信仰の発生という問題を切りはなして考えていく。
善光寺の創建時期については、本格的な発掘調査がないために正確なことはわからない。ただ、境内からは数種類の瓦(かわら)が出土しており、この瓦から創建年代をあてる作業がなされてきた。この点はあとでふれる。善光寺の創建時期の問題としてつぎにあげられるのが、いわゆる善光寺式三尊像(さんぞんぞう)である。善光寺式三尊像は、阿弥陀(あみだ)如来像の一形態の呼び名で、一光三尊とよばれ、一つの光背(こうはい)に阿弥陀・観音(かんのん)・勢至(せいし)の三尊が立像(りゅうぞう)であらわされている。光背(こうはい)は舟形(ふながた)をしていて、その中心に頭光・身光があらわされ、周囲には七化仏(けぶつ)と火焔文(かえんもん)がめぐらされている。三尊はそれぞれ臼形蓮台(うすがたれんだい)とよばれる台座に立っている。中尊(ちゅうそん)の阿弥陀如来像は右手が施無畏印(せむいいん)、左手が刀印(とういん)をあらわしている。観音・勢至菩薩像は宝冠(ほうかん)をいただき、両手は胸前で珠を上下に重ねて包むようないわゆる梵篋印(ぼんきょういん)をあらわしている。
現在、善光寺の本尊は秘仏とされていてその姿はわからないが、各地に残る善光寺式阿弥陀如来像の様式や、前立(まえだち)本尊像から、秘仏の本尊は飛鳥(あすか)時代のものであると推測されている。これは、一光三尊形式が、奈良の法隆寺(ほうりゅうじ)の釈迦(しゃか)三尊像に代表されるような、飛鳥時代三尊像に典型的な姿と共通するためである。この様式の源流は、中国の北魏(ほくぎ)後期様式と考えられる。飛鳥時代の作例のうち、法隆寺献納宝物(ほうもつ)一四三号の一光三尊仏立像は、光背や三尊の印相が善光寺本尊の姿を想像させるとともに、善光寺式阿弥陀如来像の原形が飛鳥時代にさかのぼるという根拠ともなっている。この仏像は、飛鳥時代の止利(とり)仏師の作風とは違った特徴をもち、朝鮮からの渡来仏である可能性が指摘されている。また、飛鳥時代の一光三尊像には、釈迦如来像が多いということから、善光寺の本尊も本来は釈迦三尊像であったのではないかとする考えかたもある。たしかに、善光寺の本尊が当初から阿弥陀如来であったのかは不明な点が多く、こうした本尊のたどった歴史についても考えていく必要がある。
善光寺の本尊は飛鳥時代の作である可能性が高く、ひいては朝鮮や大陸にその源流をみることができる。しかし、現在、各地に伝わる善光寺式阿弥陀如来像のうち、その造像(ぞうぞう)時期がはっきりする最古の作例は、山梨県甲府市にある甲斐(かい)善光寺の建久(けんきゅう)六年(一一九五)のものであり、古代にさかのぼる作例は確認されていない。善光寺本尊の模作(もさく)は、古代にさかのぼるとは考えにくく、中世以降のことといえる。
善光寺の名が文献の上にあらわれるいちばん古い例は、一〇世紀ごろに成立した、『僧妙達蘇生注記(そうみょうたつそせいちゅうき)』のなかに「水内郡善光寺」と記されるものである(第二編第一章第一節三参照)。「善光寺縁起」がいうような特別な寺院としては扱っておらず、善光寺の存在は確認できるものの、善光寺信仰についてはなにもふれていない。
この時期の善光寺については、その本尊が飛鳥時代のものである可能性を指摘できるだけで、それ以外のことについてはほとんどわからない。ただ、善光寺本尊が大陸系の様式を伝えるということが、平安時代以降の善光寺信仰のよりどころとなった可能性は大きい。