日本海に面した北陸地方を中心に、飛鳥・白鳳(はくほう)時代の金銅仏(こんどうぶつ)が分布する。こうした金銅仏には、朝鮮から直接渡ってきたであろうと想定されるものも多くふくまれ、日本海周辺地域と大陸との直接的な交渉が考えられている。長野県下にも、飛鳥・白鳳時代の金銅仏が二体存在する。ひとつは飛鳥時代の作になる北安曇郡松川村の観松院(かんしょういん)に伝わる菩薩半跏(ぼさつはんか)像、もうひとつは白鳳時代のものとされる長野市若槻吉(わかつきよし)の山千寺(さんぜんじ)地区に伝わる観音菩薩立像である。また、奈良時代に入ると思われる小金銅仏としては、東筑摩郡波田(はた)町盛泉寺(じょうせんじ)の菩薩半跏像(旧若沢寺(にゃくたくじ))、それに上田市下之郷長福寺の銅造菩薩立像(小布施町中子塚(ちゅうしづか)神社出土)の二体である。長野県下では小金銅仏は県の北部地域に偏在することに特徴がある。ただ、小金銅仏は容易に移動できるため、当初からその地にあったという確証がないという問題はあるが、古代からこの地に伝わってきたという前提のもとに、これらの小金銅仏の特徴と現在仏像が安置されている地域の特徴についてふれる。
飛鳥・白鳳期の二体のうち、観松院の像は飛鳥時代のもので、その作風から渡来系金銅仏の特色をもつとされている。この像は、長崎県対馬の浄林寺の仏像と酷似(こくじ)している。浄林寺の像は、銅造半跏思惟(しい)像の下半身部分である。また観松院の像は、従来から新羅仏(しらぎぶつ)として注目されてきた新潟県関山神社の観音菩薩立像とも、面貌(めんぼう)表現の手法や着衣の装飾文様が一致している。このように、観松院の像の類例は、日本列島の日本海側に見いだすことができる。
市内吉の山千寺に伝わる銅造菩薩立像は、白鳳時代の典型的な仏像で中央の作風を示す。山千寺に伝わる縁起には、中国の南天(南天竺(なんてんじく))仏を江陽県安中寺から天平勝宝六年(七五四)に鑑真(がんじん)が日本にもたらしたものとの伝承を載せる(坂井衡平(こうへい)『善光寺史』)。しかし、中央から伝来したという根拠はなく、もし当初からこの地にある像とするならば興味が増す。
山千寺地域は長野市の北部に位置する。現在も山千寺という懸崖(けんがい)づくりの本堂が残る。ここから少し離れたところに、長野市でも有数の群集墳である吉古墳群があり、積石塚(つみいしづか)古墳もふくまれている。また石室に仏画を陰刻したものもある。もしこの仏画が古墳築造当初に描かれたものであれば、古墳の被葬者(ひそうしゃ)と仏教との関係が考えられよう。山千寺の仏像をまつっていた人物が、この古墳群に葬られているのかもしれない。