白鳳時代の寺院

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古代寺院が現代まで残る例はまれである。まして、地方においては数えるほどしかない。消滅した寺院の存在を確認する方法として、古瓦(こがわら)の散布(出土)を手がかりにする方法が取られている。ただ、瓦を葺(ふ)かない寺院も多くあったことがわかってきており、古代寺院の存在を瓦の散布のみから推測するのは問題もある。長野県の場合、古瓦の出土地はじつに一〇〇ヵ所を数えるが、このなかには瓦の生産遺跡などもふくまれており、確実に寺院跡と判断できる遺跡はそれほど多くない。

 白鳳時代のものと推定される瓦や寺院関連の遺物が出土する遺跡は、長野県下でいくつかが確認されている。これらのなかには、①発掘調査がおこなわれ遺構と遺物(瓦など)が確認されているもの、②同時代のものと推定される瓦が地表面から採集され、すでに寺院跡として考えられてきたもの、③発掘調査によって寺院跡との確証は得られなかったものの、出土遺物などから寺院跡と推定されるもの、などがある。

 まず、①の遺跡として、東筑摩郡明科(あかしな)町の明科廃寺跡と更埴市雨宮(あめみや)の雨宮廃寺跡があげられる。明科廃寺跡は、昭和二十八年(一九五三)に発掘がおこなわれた。このときには、礫敷(れきしき)遺構が見つかり、瓦・鴟尾(しび)・土器など多量の遺物が出土している。出土した素弁八弁蓮華文(そべんはちべんれんげもん)をもつ軒丸瓦(のきまるがわら)は、山梨県敷島(しきしま)町の天狗沢瓦窯跡(てんぐざわがようあと)や、岐阜県吉城(よしき)郡杉崎廃寺跡のものに類似しており、七世紀の第Ⅲ四半期に推定されている。

 更埴市の雨宮廃寺跡は、昭和三十七年(一九六二)に発掘調査がおこなわれ、礎石(そせき)建物跡二棟が出土している。この遺構にともなって、軒丸瓦三点、軒平瓦(のきひらがわら)一点が出土している。軒丸瓦については、新潟県新井市の栗原遺跡出土の瓦との類似性が指摘されており、白鳳時代にさかのぼるといわれている。雨宮廃寺跡は七世紀代の創建であることが想定されるが、更埴市の屋代遺跡群との関連も見のがせない。雨宮廃寺跡の東方約一キロメートルのところに、大量の木簡(もっかん)が出土した屋代遺跡群高速道調査の第六地点がある。この遺跡の近くには埴科郡の郡家(ぐうけ)跡などが推定されている。もし屋代遺跡群のどこかに郡(評)家があるとすれば、まさに雨宮廃寺跡は、郡(評)に付属する寺院(郡寺)と考えることもできる。

 つぎに②としてあげられる遺跡を列記すれば、飯田市上川路(かみかわじ)の上川路廃寺跡、北佐久郡望月町の天神反遺跡、佐久市長土呂(ながとろ)の周防(すおう)畑遺跡群、長野市篠ノ井石川の上石川廃寺跡、長野市元善町(もとよしちょう)の元善町遺跡、須坂市小河原の左願(さがん)(岸)寺遺跡、などがあげられる。ただ、遺構がともなわず積極的に白鳳時代の遺跡であるということができない。とりあえずは、このうちの上石川廃寺跡・元善町遺跡・左願寺遺跡についてみていくこととしたい。

 上石川廃寺跡は、古くから瓦の散布地として知られている。瓦の散布範囲は東西約五〇メートル、南北約六〇メートルに限られている。この中央からは、塔心礎(とうしんそ)といわれる石が発見されている。出土する軒瓦は、軒丸瓦のみで軒平瓦は見つかっていない。軒丸瓦は複弁八弁(ふくべんはちべん)蓮華文と単弁蓮華文の二種類で、このうち複弁八弁蓮華文軒丸瓦は完形で出土している。上石川廃寺跡の立地をみると、その北側尾根上に四世紀末の川柳(せんりゅう)将軍塚古墳があり、前方後円墳・円墳などが集まっている場所である。東山道の推定路もこの付近を通過し、交通の要衝(ようしょう)でもある。上石川廃寺跡は、当地の有力者が檀越(だんおつ)(施主)として寺の維持管理にあたっていたものと思われる。


図7 上石川廃寺跡出土瓦実測図・拓影

 長野市元善町遺跡は、現善光寺境内地とその周辺をさす。ここから出土する軒丸瓦・軒平瓦は、善光寺の創建年代を示す資料として古くから知られている。この遺跡の北側約一・五キロメートルのところに地附山(じづきやま)古墳群がある。この古墳群がふくまれる大峰山山麓(おおみねやまさんろく)やそこから東へとつづく三登山(みとやま)山麓一帯の市北部地域に存在する古墳の数は、じつに旧上水内郡内の古墳の約六〇パーセントを占める。元善町遺跡に存在した寺院の檀越は、地附山古墳群の被葬者の集団であったと想定される。ここから出土する線鋸歯文縁(せんきょしもんふち)の蓮華文をもつ軒丸瓦(善光寺瓦Ⅱ)は、須坂市の左願寺遺跡からも出土し、白鳳期の様相をもつものとされてきた。また、両遺跡のあいだでは寺の造営にあたってなんらかの親密な関係があったことを推測させる。ただ、この瓦の年代観はまだ定まっていないため、今後の検討が待たれるところである。


図8 元善町遺跡出土瓦実測図・拓影 (『県史考古』より)

 左願寺遺跡も、寺跡であるとの発掘調査による確証は得られていないが、瓦の散布地として知られてきた。軒瓦として、軒丸瓦三種類、軒平瓦一種類が出土している。この左願寺遺跡からほど遠くない地域には、たとえば五世紀中ごろに築造された須坂市の八町鎧塚(はっちょうよろいづか)一号墳があり、これは善光寺平において最古段階の積石塚古墳であるし、また同じ二号墳からは金銅製の帯金具(おびかなぐ)が出土しており、朝鮮から渡来した品である可能性も指摘されている。このように、古くから朝鮮との関連が想定される地域である。こうした歴史的環境のなかに成立した左願寺遺跡の寺はどのような寺院であったのか興味深い。

 最後に、③に分類されるものとして、長野市若槻稲田の二ッ宮遺跡がある。この遺跡からは、白鳳時代のものと推定される鴟尾(しび)が出土している。しかし、鴟尾と関連するような寺院跡などの遺構は確認されておらず、今後に課題を残すものの、この二ッ宮遺跡周辺の若槻徳間地域においては、従来も古瓦の出土例が報告されており、この付近に古代の寺院跡を推定することもできる。

 この時期における地方寺院がどのような役割を果たしていたのかは、不明な点が多い。しかし、以上のことから、この地方にも、きわめて早い時期に仏教が受容され、造寺・造仏がおこなわれていたことが想定される。