信濃国分寺の造営

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奈良時代の半ば、全国に国分寺(こくぶんじ)の建立(こんりゅう)がすすめられた。国分寺の造営は画一的になされたものではなく、地域的にさまざまな様相をもっていた。

 天平(てんぴょう)十三年(七四一)に出された国分寺建立の詔(みことのり)はよく知られている。しかし、この詔については、以前から多くの問題点が指摘されてきた。この詔の文言のなかには事実と違う部分がふくまれていることである。現在では、詔の端緒を、それより四年前の天平九年三月に出された、各国に釈迦三尊像を配し、大般若経(だいはんにゃきょう)を写させるという命令に求めている。天平十三年の詔は天平九年の詔を政策として拡大させたものである。天平九年、同十三年と詔が出されても、国分寺造営事業は思うようにはすすんでいない。天平十九年にはあらためて、同十三年の国分寺造営の詔を繰りかえし述べたあと、造営の遅々としてすすまない状況を嘆いている。その打開策として打ちだされたのは、使者を派遣して寺地を検定させ、国司(こくし)は国師(こくし)とともに勝地を選び営繕を加えること、郡司(ぐんじ)のうちで諸事に堪えうる人物に造営を担当させ、三年以内に塔・金堂・僧坊をつくり終えること、などを命じたことである。これは諸国国分寺の造営がほとんどすすんでいなかった状況を如実(にょじつ)に示している。打開策のなかで注目すべきは、郡司を国分寺造営に加担させ、任を全うした郡司にたいしては、子孫を絶えることなく郡領(ぐんりょう)(郡司)に任命すると約束していることである。この政策転換によって国分寺の造営が本格的に展開したと考えられている。

 郡司の協力を示す事柄としていわゆる献物叙位(けんもつじょい)がある。献物叙位とは、いわば売位制度のことで、私穀などの財を献上することで位階を得るものである。天平勝宝元年(七四九)には、上野(こうずけ)国(群馬県)・尾張(おわり)国(愛知県)・伊予(いよ)国(愛媛県)・飛騨(ひだ)国(岐阜県)の国分寺に知識(ちしき)(財物などを仏事に提供してその功徳に預かろうとすること)の物を献上した郡領層がそれぞれ外(げ)従五位下を授けられている。天平十九年の詔からちょうど三年目にあたるが、これらの国では郡領層の協力により国分寺の造営がほぼ完了したのではないかと考えられている。郡司などが国分寺造営に協力したことを示す考古学的な資料として文字瓦(もじがわら)がある。これは、瓦に郡名や郡司層などの個人名を記したものである。たとえば武蔵(むさし)国分寺跡からは多くの文字瓦が出土しており、武蔵国内のほとんどの郡が国分寺の造営に協力していたことが知られる。


図9 信濃国分寺跡の伽藍配置と出土軒瓦

 天平十九年の造営督促のあとも、多くの国では造営がすすまなかったようで、天平勝宝八歳(七五六)にいたってまた、使者を遣わして国分寺に安置する丈六仏(じょうろくぶつ)の造立(ぞうりゅう)を急がせ、聖武(しょうむ)天皇の一周忌にあたる翌年の五月までにつくり終えるように命じている。また、仏像やそれを安置する殿舎をつくり終えた国は、塔をも完成しておくようにといっている。国分寺の造営は大事業であっただけに、短期間に完了することができた国は少なく、むしろほとんどの国では、天平九年の建立の発願(ほつがん)以降、じつに一五年もの歳月がかかったとみられる。


写真34 信濃国分寺跡出土瓦 (長野市立博物館『古代・中世人の祈り』より)

 こうした全国の状況のなかで、信濃国分寺はどのような造営をおこなったのであろうか。信濃国分寺跡の発掘調査は、全国に先がけておこなわれ、考古学史に残るものであった。しかしその半面、発掘の主目的が遺跡の保存にあったため遺構の部分的な検出にとどまり、面として遺構のようすを知ることはできなかった。だが長野県下では唯一、伽藍(がらん)配置がはっきりわかった寺院跡として重要な遺跡である。

 これまで、信濃国分寺の創建に使われた瓦は、いわゆる東大寺所用(しょよう)の瓦(6235型式)と同じ型でつくられた同笵(どうはん)の瓦であるとされ、平城宮で出土する瓦の編年では第Ⅲ期に相当するとみられていた。その時期は、天平十七年(七四五)から天平勝宝年中(七四九~七五七)に推定され、この時期に信濃国分寺が造営を始めたと理解されてきた。しかし、信濃国分寺の瓦が、東大寺所用の瓦とまったく同笵であるわけではないという指摘があり、国分寺造営の本格的な着工は、天平十九年よりも遅れていたらしい。また、従来再建瓦といわれてきた在地系の瓦が、技法的な検討から東大寺所用の瓦に先行するのではないかという指摘もある。

 この在地系の瓦の代表である蕨手文(わらびてもん)軒丸瓦は、坂城町の土井(どい)の入窯跡(いりようせき)が生産地であることが判明している。また、この窯跡の近くには込山(こみやま)廃寺跡がある。この寺も蕨手文軒丸瓦を使っている。このことから、天平十九年の詔にもとづいて、埴科郡司らが国分寺造営に積極的に協力し、土井の入窯で焼成した瓦を使って、信濃国分寺の造営を本格化させたものと推測することもできよう。