千曲川流域の古代寺院

405 ~ 407

信濃国分寺の造営事業は信濃国内に大きな影響をあたえた。ことに、瓦の生産体制は大きな変革を迎えたと思われる。

 奈良時代の瓦窯(がよう)跡は近年数多く報告されるようになった。中野市の池田端窯跡は、国分寺造営に先行する瓦窯であることが発掘調査から明らかとなった。しかも、そこで焼成された瓦の供給先は、須坂市の左願寺遺跡である可能性が指摘されている。

 八世紀前半のこの時期、政府は霊亀(れいき)二年(七一六)に寺院併合令を出した。寺院併合令とは、白鳳時代から全国に建てられた寺院のうち、寺とは名ばかりのものを併合しようとするものである。また、寺院の所有地などを檀越が専横することも禁じた。この法令の実効性については、たとえば関東などの寺院の発掘調査によって得られた結論として、この時期に多くの寺院で修造(改修)がなされているという。これは、他の寺院と併合されるのを恐れて、実態のある寺院とするためにとった行為であろうといわれている。寺院併合令の出された奈良時代のはじめは、相変わらず造寺活動が盛んであったのである。信濃でも寺院併合令によって修造される寺院が増加し、そこで用いられる瓦を供給するために池田端瓦窯がつくられた可能性もある。

 信濃国分寺造営が本格化すると、瓦を専門的に焼くための瓦窯が多くつくられる。坂城町の土井の入窯跡、小県郡丸子町の依田古窯跡は、あきらかにそこで焼かれた瓦が信濃国分寺で使用されたことがわかっている。各地の郡司層が、国分寺の造営に積極的に協力するようになると、かれらはみずからの氏寺を造営するようになった。こうしたことが示すように、信濃国にあっては奈良時代に多くの寺院が造営された。北信濃では、坂城町の込山廃寺跡がある。


図10 東北信の主な瓦類出土地点 (長野市立博物館『古代・中世人の祈り』より)

 長野市元善町の元善町遺跡の場合も、白鳳時代についで、寺院が奈良時代まで存続したと推定される瓦が出土している。国分寺造営を画期としてなんらかの変化があったことが想像できる。同じことが須坂市左願寺遺跡にもいえる。

 いっぽう、更埴市の雨宮廃寺跡から出土した軒瓦には、信濃国分寺跡出土の軒瓦との接点を見いだすことはできない。埴科郡内には、雨宮廃寺跡のほかにも国分寺造営の所産ともいえる坂城町の込山廃寺跡がある。それに平安時代初期の創建ともいわれる四ッ屋遺跡(道島(どうじま)廃寺跡)がある。このように、奈良時代の中ごろ、少なくとも埴科郡にあっては、一郡に二寺併存する状況が、国分寺造営を画期として発生したといえる。

 これら北信濃の古代寺院跡の立地をみると、瓦を使用した寺院は千曲川・犀川などの河川に近接した場所であることに気づく。瓦輸送のさいに河川交通を利用して船で運搬したためと考えられる。河川交通と陸上交通の交わった交通の要衝に寺院が建てられたという可能性も高い。じっさい、更埴市の雨宮廃寺跡近くには「郷津(ごうつ)」という字地名が残っており、千曲川通船との関係から、このあたりに、埴科郡の津(港)などが存在した可能性が指摘されている。