郡家と廃寺

407 ~ 409

自鳳・奈良時代の地方寺院が地域社会においてどのような役割を果たしていたのかは、詳しくはわからない。しかし、こうした寺院跡が郡家(ぐうけ)推定地に隣接している例が多い。たとえば、飯田市の伊那郡家推定地には、元善光寺境内遺跡があり、埴科郡家推定地には雨宮廃寺跡がある。更級郡家推定地とされる更埴市八幡の郡(こおり)地籍には青木遺跡があり、水内郡家推定地には元善町遺跡や県町(あがたまち)遺跡がある。高井郡家の推定地ははっきりしないが、おそらくは須坂市塩川の長者屋敷(ちょうじゃやしき)地籍に立地したのではないかと考えられる。そうだとすると、ここでも左願寺遺跡を高井郡家に近接した寺院としてあげることができる。このように、この時期の地方寺院は郡司のいる郡家付近につくられている例が多いことがわかる。

 郡家に隣接した寺院の檀越(だんおつ)は、当然のことながら郡領層である。かれらの仏教信仰については、仏教説話である『日本霊異記(にほんりょういき)』に多くみられる。小県郡の他田舎人蝦夷(おさだのとねりえみし)は、他人に貸しつけるときは軽い秤(はかり)で貸し、取りたてるさいには重い秤を使用して利益を得、その悪行により地獄に落ちたが、「法華経」を書写したという善行のために無事に蘇生したという。また、小県郡の大伴連忍勝(おおとものむらじおしかつ)が一族の氏寺を守り大般若経を書写したために、寺のものをみだりに使用したという悪行によって地獄に落ちたものの、蘇生したという。

 ここに記される内容がそのまま史実であるとはいえないものの、郡領層の仏教信仰は盛んであったことがうかがわれる。それではこうした地方の仏教信仰を支える僧尼(そうに)は、地方にあってはどのように養成されたのであろうか。大宝二年(七〇二)、国ごとに国師がおかれた。国分寺が造営されると、国師はそこに住して国内の僧尼を統括することを役目としていた。国分寺は郡司の寺院をも管下においていたのである。こうした地方寺院に常住する僧尼の出身地はという問題になると、やはり都との関係を想定せざるをえない。当時都と地方とを僧尼が自由に往来していたことが指摘されており、信濃においても僧尼は都から派遣される例が多かったと思われる。


写真35『日本霊異記』(下巻・真福寺本(しんぷくじほん)) (愛知県 宝生院(ほうしょういん)蔵)