国分寺と信濃の定額寺

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都が平安京に移ると、仏教界も変革期を迎える。天台宗(てんだいしゅう)を開いた最澄(さいちょう)や真言宗(しんごんしゅう)を開いた空海(くうかい)にみられるような、従来の南都(なんと)仏教の枠をこえた思想が求められていた。仏教界における新しい風潮は、地方にも敏感に受けとめられた。奈良時代に各国につくられた国分寺の平安時代における動向である。

 国分寺は、奈良時代をとおして多くの資金をつぎこんでつくられた。その後、平安時代になると、国分寺でおこなわれた法会(ほうえ)の状況がうかがえるようになる。従来、国分寺は平安時代になると衰退の一途をたどるとされてきた。しかし、平安時代初期の弘仁(こうにん)(八一〇~八二四)から貞観(じょうがん)(八五九~八七七)におよぶ九世紀前半になると、史料上、国分寺の活動は奈良時代よりも多くなり、奈良時代にまだ国分寺のおかれなかった国にも設置されるようになる。そして国分寺においては、多くの法会が営まれることとなる。このように、九世紀は国分寺が寺としての機能を十分に果たした時期ともいえる。

 国分寺のこうした活発な宗教活動は、おのずと地方の諸寺院にも影響をあたえた。九世紀の半ばになると、定額寺(じょうがくじ)というものが史料に散見されるようになる。この定額寺については古くから論議されてきたが、その性格について明確な答えがない。信濃にあっても、貞観八年(八六六)に五つの寺が定額寺に列せられた。伊那郡の寂光寺(じゃくこうじ)、筑摩郡の錦織寺(にしごりでら)、更級郡の安養寺(あんようじ)、埴科郡の屋代寺(やしろでら)、それに佐久郡の妙楽寺(みょうらくじ)である。

 五つの寺の推定地については諸説がある。伊那郡の寂光寺は飯田市座光寺(ざこうじ)付近にあてられる。筑摩郡の錦織寺は、東筑摩郡四賀村錦部と松本市大村の大村廃寺跡をあてる両説がある。更級郡安養寺は東筑摩郡坂井村安養寺をあてる説と、長野市篠ノ井上石川の上石川廃寺跡説、更埴市の青木遺跡をあてる三つの説がある。埴科郡の屋代寺は更埴市雨宮廃寺跡をあてる説が大勢を占める。佐久郡妙楽寺は、佐久市内の同名寺院をあてる説、佐久市長土呂(ながとろ)の寺院跡をあてる説がある。いまだ定説のない寺院が多い。いずれも瓦の散布地をあてる説が多い。しかし、定額寺が国分寺のように多くの瓦を使用するような寺であったとの確認もなく、どのような規模の寺院が定額寺となったのかも不明である。

 推定地の議論とは別に、信濃において五つの寺が同時に定額寺に列格されたことについては、政治史的に解明しようとする研究がある。五つの定額寺を設置することで、信濃にも勢力をもっていた伴(とも)氏勢力の抑圧(よくあつ)をはかり、その結果、貞観八年の応天門(おうてんもん)の変が起こるというものである。しかし、これによって信濃の定額寺については、説明がつくとしても、その他の国々の定額寺については、どの程度政治的な意図をもって列格されたかは不明である。また、定額寺がこの当時果たした役割についても理解しにくくなる。信濃の場合、その特徴としてあげられるのは、一郡に一寺のみの定額寺が列格されていることである。このなかには、錦織寺や屋代寺のように郷名(ごうめい)を冠(かん)した郷名寺院とでもいうべき寺院がふくまれている。この当時、郡内にどれほどの寺院が存在したかは不明であるが、他の郷にも寺院が存在したと推定される。とすれば、郡内の複数寺のなかから有力な寺院のひとつが定額寺に列格されたといえよう。

 信濃の定額寺がどのような役割を果たしていたかは、史料的な制約があって明らかではない。正史に定額寺の法会があらわれるのは、承和(じょうわ)年間(八三四~八四八)以降である。これは、平安時代における国分寺の整備が一段落した時期に相当する。定額寺での法会は、国分寺の法会や名神(みょうじん)とセットでおこなわれることが多くなる。その目的は、「水災」や「兵疫」除去を目的とし、在地における不安を解消するためのものである。定額寺は国分寺・名神とともに、律令(りつりょう)国家のもとで在地において重要な役割を受けもっていたのである。