信濃の神

411 ~ 414

古代社会において、神の祭祀(さいし)はきわめて重要な位置を占めていた。村落における祭祀が、多分に政治的な様相を呈(てい)していたからである。村落内の産土神(うぶすながみ)や氏族の神である氏神(うじがみ)など固有の神が意識され、神にたいする祭りなどが整備されるのは、仏教が日本に入ってきたことに起因する。仏教公伝を伝える『日本書紀』の記事のなかに、「我が国家の、天下に王とましますは、恒(つね)に天地社稷(しゃしょく)の百八十神(ももやそがみ)を拝みたまはば、恐るらくは国神の怒を致したまはむ」とのことばに端的に象徴されている。仏教を蕃神(ばんしん)としてとらえることで、逆に日本固有の神を意識するようになるのである。

 ここで、平安時代初期の神について述べる前に、それ以前のことについても簡単にふれておきたい。

 信濃の神が正史にはじめてあらわれるのは持統(じとう)天皇五年(六九一)のことである。『日本書紀』の持統天皇五年八月二十三日の条には、「使者を遣(つかわ)して竜田(たつた)風神、信濃の須波(すわ)、水内(みのち)等の神を祭らしむ」とある。「竜田風神」は大和の竜田神(奈良県生駒郡三郷町)をさす。信濃二神については、須波神は、現在の諏訪神社上社の祭神である建御名方富命彦神(たけみなかたとみのみことひこかみ)である。水内神については、現在の戸隠神社にあてる説と、『延喜式(えんぎしき)』神名帳(じんみょうちょう)の建御名方富命彦神別神社にあてる説があり、後者が大勢となっている。戸隠の神である九頭竜(くずりゅう)神が『延喜式』神名帳に見えないこと、須波神とのセットを考えた場合、須波神の分社である建御名方富命彦神別神社を考えたほうが解釈しやすいことによる。

 水内郡内には現在、建御名方富命彦神別神社と名乗る神社が複数あり、いわゆる論社(ろんじゃ)である。論社とは「式内社(しきないしゃ)」の比定にあたって、その候補となる神社が複数あることをいう。建御名方富命彦神別神社に比定される神社をあげると、長野市城山・飯山市豊田五束(ごそく)・上水内郡信州新町水内(みのち)の三ヵ所である。これらのうちのどれがこの神社にあたるのかは結論を見いだすことはむずかしい。長野市城山の例をとりあげると、この神社は、近世初頭まで善光寺の境内にあったことが確認でき、南北朝期に成立した『諏訪大明神画詞(えことば)』でも、善光寺境内の「南宮社(なんぐうしゃ)」がこの神社にあたるとしている。

 持統朝に信濃の須波・水内の神に使者が遣わされた背景は、農耕神事の体制化という政府の政策が関係していたらしい。このとき使者が遣わされた竜田神は「風神」と記されており、天武(てんむ)四年(六七五)四月に風神祭が初見される。この祭りは、孟夏(もうか)(四月)と孟秋(もうしゅう)(七月)のそれぞれ四日におこなわれた。風水の害なきを祈るものであった。在地の農耕神である須波・水内の二つの神に中央からの使者が遣わされ、祭りがおこなわれるということは、在地で信仰されていた農耕神が国家による祭祀体制のなかに着実に組みこまれていったことを示していよう。

 律令制がととのうと、神祇(じんぎ)もこの法律のもとに編成される。祈年祭(としごいのまつり)にさいして神祇官が班幣(はんぺい)をする神社を官社というが、この官社制によって国家的な祭祀(さいし)が完成するのである。官社の認定は、国司が推薦理由をしたためて上奏し、太政官で決定したあとに神祇官へ送られ、帳簿に登録されるという形態をとった。このように官社に預かり社格をあたえられることによって、神社の修理造営や清浄、祈年祭のさいの入京が義務づけられた。官社の数は国や郡で固定してはいなかった。律令国家にとって必要な神であったり、あるいは国司や在地社会にとって験(げん)のある神について、国家が認定するというかたちをとっていた。このため官社が平安時代のはじめごろにかけて増大していくのである。信濃では、この官社に預かったのは、『延喜式』神名帳によれば四六社四八座であった。

 信濃の官社のうち、北信濃についてみてみると、更級郡には一一座、水内郡には九座、高井郡には六座、埴科郡には五座である。信濃国のうちでも、北信濃、ことに長野市周辺に多く分布しているのが特徴である。現在の長野市域に所在するといわれる神社を、論社をふくめて神社名だけを列記するとつぎのようになる。更級郡では、布施(ふせ)神社・長谷(はせ)神社・清水神社・氷鉋斗売(ひがなとめ)神社・頤気(いけ)神社、水内郡では、美和神社・妻科(つましな)神社・守田神社・粟野(あわの)神社・風間神社・皇足穂命(すめたるほのみこと)神社・建御名方富命彦神別神社、高井郡では小内(おうな)神社、埴科郡では、中村神社・玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社・祝(ほうり)神社があげられる(『角川日本地名大辞典・長野県』など)。ただ、これらの「式内社」が現在のどの神社にあたるか、あるいはどこにあったかを考えることは困難である。それは、当時の史料が伝わらないこともあるが、江戸時代に願いでてこうした「式内社」の社号を得る神社が増えるからである。そのため、論社があらわれるのである(なお、個別の「式内社」が現在のどの神社にあたるかは、『長野市誌』旧市町村史編の各地区「神社と寺院」参照)。

 官社制と並行してあらわれるのが名神(みょうじん)制である。名神とは、神社のうちでも由緒があり、特別の待遇に預かる神のことをいう。名神にたいする奉幣は奈良時代から散見するが、貞観年間にしきりにあらわれる。名神は、官社が国家行事としての祈年祭などの定例奉幣の社であるのにたいし、臨時祭祀の対象であった。名神への奉幣に合わせるように定額寺における仏事もおこなわれていた。ここに神と仏を一体とした神仏習合(しゅうごう)の様相を見ることができるのである。

 このように、官社制・名神制によって、奈良時代から平安時代初期にかけて、在地神は国家の神祇統制下に組みこまれるようになる。