八世紀後半になると、神階叙位(しんかいじょい)がおこなわれるようになる。神階を授与することで地域における神社の序列化をうながしたのである。このなかには、官社や名神となっていない神が多く見うけられる。
信濃にあっては、建御名方富命神が承和(じょうわ)九年(八四二)に無位から従五位下に昇叙(しょうじょ)された。嘉祥(かしょう)三年(八五〇)には、建御名方富命神と八坂刀売命神(やさかとめのみことがみ)が同時に従五位上に昇叙され、仁寿(にんじゅ)元年(八五一)、貞観元年(八五九)にもそろって昇叙されるようになる。この二神の昇叙は、嘉祥四年に出された太政官符による叙位であった。この官符は、名神・大社については従五位下、それ以外の神社は正六位上を最低ラインとして、一階昇叙させるというものであった。信濃ではこの二神が神階叙位の早い例であり、この時期の信濃における代表的な神であったことがわかる。
貞観元年以降、信濃国では二四の神が神階叙位に預かっている。この叙位の伝達については、国司を通じて個別におこなわれており、国司の権限が神々の序列化に影響していたのである。このうち官社は八座にすぎず、それ以外の神々が政府から公認されたことを意味している。九世紀半ばを画期として、信濃国内の在地祭祀の秩序が変化したことが推定できる。
この時代、神仏習合の風習が、地方に浸透するようになる。貞観八年(八六六)二月七日、信濃国水内郡三和(みわ)・神部(かんべ)両神が、「神怒」によって「兵疾之災(わざわい)」があるとして、政府は国司・講読師(こうどくじ)に命じて奉幣し金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)千巻・般若心経万巻を転読(てんどく)し、「神怒」に謝している。このあと、二月十四日には肥後(ひご)国(熊本県)阿蘇(あそ)大神が、二月十六日には摂津(せっつ)国(大阪府)住吉(すみよし)神が「神怒」を示す。この「神怒」にたいしては、共通して金剛般若経・般若心経の転読がみられる。神の怒りを、奉幣のみならず転読(読経)によって鎮(しず)めようとしている。神前読経という神仏習合を象徴するような現象が多くなっていくのである。なお、ここにあらわれる三和神とは、現在三輪相ノ木に鎮座する美和神社をさすと思われる。美和神社は旧三輪村の産土神(うぶすながみ)として信仰されている。祭神は大物主命(おおものぬしのみこと)、相殿は国業比売神(くになりひめのかみ)・神部神(かんべのかみ)である。また、十二月十六日におこなわれる越年祭は、境内百末社石祠(せきし)の全国一の宮の天神・地神の神々に祝膳を捧げる儀式という(『長野市誌』⑧)。