古代社会にあって、仏教は単に国家が掌握していただけではなく、ひろく民衆にまでひろがっていた。
村落内に仏教が浸透していたことを示すものとして、墨書(ぼくしょ)土器と集落内の堂跡、それに仏教関連遺物の出土の三つがあげられる。
長野県内の集落遺跡のうち、寺を示す墨書土器が出土しているのは、北信では更埴市五輪堂(ごりんどう)遺跡の、「豊□寺」、同市更埴条里遺跡の「寺」「丁寺」、同市馬口Ⅱ遺跡の「寺」などがあげられる。東信では、北佐久郡御代田町川原田遺跡の「大平寺」「大内寺」がある。中信では、塩尻市吉田川西遺跡の「西寺」「文□寺」や、直接寺をさすものではないが仏教思想を反映したと思われる「安」「浄」「朋」がある。同市丘中学校遺跡「□色寺」「□寺」、同市田川端遺跡の「寺」「小□□寺」などもあげられる。
このように集落内出土の土器に寺名を記すのは、集落内になんらかのお堂などの仏教に関係した遺構があった可能性を示している。じっさい、更埴条里遺跡や川原田遺跡、それに吉田川西遺跡などでは、仏教関連の遺跡と思われる掘立柱(ほったてばしら)建物跡が検出されている。
村落内の仏教施設としてのお堂が発掘された例として、礎石建物や掘立柱建物跡のほかに、たとえば更埴市五輪堂遺跡の正方形をした基壇(きだん)状遺構があげられる。また、南信地方で中世の遺構とされてきた正方形の基壇状遺構は、古代の集落内における堂跡と考えることが可能かもしれない。
集落遺跡から仏教関連の遺物が出土する例が多くなってきた。寺の塔やお堂を模した陶製の瓦塔(がとう)が、長野市内では、徳間遺跡(若槻徳間)や田牧遺跡(更北稲里町田牧)、篠ノ井遺跡群(篠ノ井)からも出土している。篠ノ井遺跡群では瓦塔のほかに塼仏(せんぶつ)も出土している。これは仏堂の壁面などを装飾する焼き物で、七~八世紀に盛んにつくられた。
古代集落には仏教受容の姿がよく示されている。民衆レベルでの仏教については、前出の『日本霊異記』の記述が参考となる。村落レベルにまで仏教が浸透したのは、国家側からの働きかけという部分もあったと推定される。諸国の文殊会(もんじゅえ)は九世紀に盛大に催されるようになるもので、村邑(むらさと)でも法会をおこなうように太政官符で命じられている。九世紀になって国分寺の法会が充実し、集落における仏教法会には国分寺僧などの参加もあったらしい。『日本霊異記』にも、国分寺の僧や講読師などが集落内で法会をおこなうという話が載せられている。信濃国分寺跡でも「講師」と墨書された土器が出土しており、信濃国分寺にも講師がいたことを証明している。