長野県には平安時代にさかのぼる仏像が多く残る。著名なものとして、松本市の牛伏寺(ごふくじ)や長野市松代町西条の清水寺(せいすいじ)の諸像があげられる。
清水寺の仏像には、千手観音(せんじゅかんのん)菩薩立像・聖(しょう)観音菩薩立像・地蔵(じぞう)菩薩立像(いずれも重文)や、薬師(やくし)如来立像(県宝)、毘沙門天(びしゃもんてん)立像(市指定文化財)などがあり、九世紀から一〇世紀のあいだにつくられた古仏群として貴重である。これら尊像の名称は製作当初からのものであるかはわからないが、この古仏群のなかに観音像が多いことに気づく。この清水寺近くの寺から流出した仏像が、東京都青梅(おうめ)市の金剛寺(こんごうじ)にまつられている。この像は、清水寺の聖観音菩薩立像によく似ており、ほんらいは清水寺の仏像群のひとつであった可能性があるといわれている。
信更(しんこう)町山平林の観音寺(かんのんじ)にある十一面(じゅういちめん)観音菩薩立像(重文)は、一〇世紀後半の作であるといわれる。安茂里窪寺(くぼでら)の正覚院(しょうがくいん)には、一〇世紀前半の作といわれる木造の伝観音菩薩立像(県宝)がある。この像は後補がほどこされていて観音像であるかどうかはっきりしない。しかし、同寺には、鎌倉時代の末ごろと思われる絹本(けんぽん)の十一面観音像が伝わるため、少なくとも中世には観音霊場として成立していた可能性がある。このほか、川中島町今井の切勝寺(さいしょうじ)には像高八〇センチメートル弱の聖観音菩薩立像(市指定文化財)がまつられており、平安時代後期の作とされる。また、若槻田子の地蔵院には、一一世紀ごろと推定される聖観音菩薩立像(市指定文化財)がある。若穂保科の清水寺には、奈良県から移された七体の仏像(いずれも重文)が存在する。この寺は、大正五年(一九一六)の火災で仏像や諸伽藍(がらん)が灰燼(かいじん)に帰したため、古仏を迎えいれたのであるが、古くからの観音信仰の場であった。清水寺に平安時代の鉄鍬形(てつくわがた)(重文)や、鎌倉時代初期の両界曼荼羅(りょうかいまんだら)(重文)が残っていることからもいえることである。なお、『僧妙達蘇生注記』には、信濃の「清水寺」がみえるが、これは松代町西条か若穂保科のどちらかの清水寺をさすものと思われる(第二編第一章第一節三)。
写真39 菩薩立像
10世紀前半の作とみられ、像高131.6cm、聖観音と伝える。もと長野市松代町の一寺院にあったもので、耳上の巻髪(まきがみ)、服制(ふくせい)などが清水寺観音像と酷似している。 (東京都 金剛寺蔵)
長野市周辺に目を向けてみると、更埴市森の観竜寺(かんりゅうじ)には、一二世紀前半のものといわれる千手観音菩薩坐像(県宝)、また同時代の十一面観音菩薩立像、これより少し制作年代の新しい木造聖観音菩薩立像がまつられる。上山田町の智識寺(ちしきじ)には、像高三メートルもある十一面観音菩薩立像(重文)がある。これは一一世紀のものである。智識寺の像は東国に多い立木仏の特徴を示す。なお、本堂の大御堂(おおみどう)(重文)は、室町時代末ごろの建築である。
このように、長野市やその周辺には平安時代にさかのぼる観音像が多い。こうした仏像の研究は、これまで美術史的な検討が中心であった。しかし、これらの仏像が現在まで伝えられてきたことは、仏像を支えてきた歴史的な背景が存在していたと考えられる。これらの観音像の造像主体や信仰主体はだれだったのであろうか。これらの仏像をまつる寺院は、そのほとんどが標高五〇〇メートル付近の中山間地にある。この立地は、たとえば石川県の浄水寺遺跡にみられるように、北陸地方で発掘事例の増えた山林内の寺院に共通するものと思われる。山林内の寺院は、集落と関係をもちながら展開しているとされる。また、用水(河川)との関係をみると、重要な用水(河川)の取水口に立地していることが多い。こう考えると、おそらくは荘園などの開発にともない、その中心をなした人びとによって、こうした観音像の勧進(かんじん)がなされたものと推定される。