古代における観音信仰の歴史は古い。たとえば、奈良県の川原寺(かわらでら)や飛鳥寺(あすかでら)といったような、日本でもきわめて初期に建立された寺院にも観音信仰の影響を見いだせる。奈良時代になると、国分寺の建立にも観音信仰の影響を見いだすことができる。こうしたことから、少なくとも奈良時代には、観音信仰が地方までひろがっていたと考えられている。当時の観音信仰はきわめて護国(ごこく)性の強いものであった。それは、藤原広嗣(ひろつぐ)の乱や橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の乱などの陰謀(いんぼう)事件にさいし、観音の霊験(れいげん)にあやかろうとする動きが国家側にあったからである。
九世紀になると、定額寺制の発生とあいまって、霊験をもつ奈良の長谷(はせ)寺や壺坂(つぼさか)寺などが定額寺に列格され、観音霊場へと発展していく。天台宗にあっては、天台六観音信仰が一〇世紀には成立し、これにともなって都の観音霊場が成立してくる。また、やや遅れて真言宗でも真言六観音が一一世紀には成立している。霊場成立の基礎には、一〇世紀になると、観音への信仰(法会(ほうえ))は国家が主催するものから、貴族層が受容するものへと変化を起こしたという事実があったのである。
中央貴族層の観音にたいする信仰の成立・発展は、少なからず地方にも影響したと思われる。それを示すものとして、先にあげたような現存する観音像があるのではなかろうか。そして、これらの観音像は、そのほとんどが標高五〇〇メートル付近の中山間地に残るのであるが、この中山間地というのは古代仏教においてきわめて重要な山林修行の地である。こうした山林での修行は、律令国家が早くから禁じたものであった。にもかかわらず平安時代からも山林修行は衰えるどころか逆に盛んとなる。松代町西条の清水寺、安茂里窪寺の正覚院、信更町の観音寺や、更埴市森の観竜寺、上山田町の智識寺など、長野盆地でも一〇世紀以降の畿内(きない)における観音霊場の影響をうけた観音霊場が形成されていたのである。
『日本霊異記』には、地方豪族たちが観音像を信仰する姿が多く記されている。また、和歌山県の粉河寺(こかわでら)の「粉河寺縁起」は、大工が勧進(かんじん)した観音像が長者の娘を助けるという霊験を示す話であるが、このようなモチーフは地方における観音信仰の形成やそのひろがりを示すものとして興味深い。
篠ノ井塩崎の長谷寺(はせでら)には「白介(しらすけ)ノ翁(おきな)」の物語が伝わっている。あらましはつぎのようなものである。「信濃国更級郡姨捨山(おばすてやま)のふもとに、允恭(いんぎょう)天皇六代の孫白介ノ翁が流罪(るざい)になっていた。生活は貧しかったが、父母の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うために供養を欠かさずにおこなっていた。この供養の成就ののち善光寺に参詣したところ、大和の長谷寺にいって修行をするようにとのお告げがあり、大和の長谷寺にいく。その帰途、今度は長谷観音のお告げによって、初瀬の里から嫁を娶(めと)った。この女性は大和長谷寺の地主神滝蔵権現の化身であった。この嫁の気転によって、荘園の領家(りょうけ)から領家代という地位と一〇〇〇両の金を手に入れた。翁はこの金をもとに、信濃の長谷観音に十一面観音像を建立した」。これが、長谷観音の縁起である。
この話にもうかがえるように、観音信仰の地方における推進者は、おそらくその地方の有力豪族層であり、そして豪族のいた集落を単位として観音霊場が維持されていたのではないかと思われる。