観音霊場と経塚 

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おそらくは一〇世紀以降に山林修行の地が、地方豪族の信奉する観音霊場へと変化した。しかしその後、末法(まっぽう)思想の流入はこの観音霊場にもさまざまな変化をもたらしていく。

 都では藤原道長(みちなが)が自身の極楽往生と滅罪生善を祈願するため、信仰の山であった金峰山(きんぷせん)(奈良県吉野郡)に経塚(きょうづか)をつくり経筒(きょうづつ)(経典を納めた筒)を埋納(まいのう)する。末法思想の影響をうけて、自己の極楽往生を祈願するために経典を地下に埋納するという行為が流行しはじめたのである。

 経塚とは、末法の世に釈迦の教えを正確に後世に伝えるために、経典を土中に埋める思想である。信濃においても、こうした経塚は観音霊場の立地した中山間地から出現している。たとえば、篠ノ井塩崎の長谷寺付近からは、仁平(にんぴょう)元年(一一五一)の銘をもつ経筒が出土している。経筒のなかには、一三本の経巻が納められていた。経筒本体には、納められた経巻名のほかに、大日如来、仏・菩薩の名が記されている。戸倉町の経ヶ峯経塚から、承安(じょうあん)二年(一一七二)に願主の菅原季孝(すえたか)がつくった旨の銘をもつ経筒が出土している。坂城町北日名(きたひな)経塚出土の経筒には、その蓋(ふた)に、保元(ほうげん)二年(一一五七)に定西が願主となってつくった旨の銘がある。観音霊場の地が、末法思想の影響によって経塚の立地場所に移行しつつあったらしい。


図12 北信濃の経塚(平安時代)分布図
(長野市立博物館『古代・中世人の祈り』より)

 山への信仰の変化についてもうひとつあげておこう。若穂綿内の蓮台寺(れんだいじ)は、奈良時代の泰澄(たいちょう)の開山という伝承をもつ。この寺には、享保(きょうほう)五年(一七二〇)に写された縁起が残っている。この縁起では天平九年(七三七)に寺が開かれたとする。蓮台寺は、今も妙徳山(みょうとくさん)の中腹に位置する真言宗の寺院である。泰澄の開山とはこの妙徳山のことをさすと思われる。この伝承の真偽については検討の余地があろうが、古くからの山林修行の聖地であった可能性がある。妙徳山頂には白鬚(しらひげ)大明神がまつられており、この神の祭儀も蓮台寺がつかさどっている。蓮台寺には、九品仏(くほんぶつ)(阿弥陀如来)のうちの一体が現存している(口絵参照重文)。この像は、平安時代の終わりごろの作例であるといわれる。現在、蓮台寺の本尊はこの阿弥陀如来坐像である。しかし、蓮台寺の場合、開基以来阿弥陀如来坐像が本尊であったとは思われない。妙徳山という山への山岳信仰から、浄土教の隆盛によって、信仰の形態が阿弥陀信仰に変化したと推定される。同寺には、一四世紀のものといわれる絹本に描かれた僧形八幡神像(そうぎょうはちまんしんぞう)がある。この像は、まさしく神仏習合の象徴的なものであり、妙徳山自体の神仏習合を物語っている。


写真42 絹本著色僧形八幡神像
 頭上に日輪を頂き、錫杖(しゃくじょう)と宝珠をもって坐す僧形八幡神像。神が僧の姿であらわされる神仏習合の垂迹(すいじゃく)画である。製作は14世紀代と推定される。(若穂綿内 蓮台寺蔵)