古代のムラの移りかわり

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六世紀を中心とする古墳時代後期の集落は、拠点的な大規模集落の周辺に、衛星のように小規模な集落が形成されていた。そして七世紀代になると、榎田(えのきだ)遺跡や田中沖遺跡などのように、これまでの拠点的集落はさらに拡大するが、長野盆地のほかの地域では大規模な集落はあまりみられない。

 さらに八世紀代の奈良時代になると、その拠点的集落でさえも消滅するか、あるいはその規模を縮小してしまう。おそらく、数軒から一〇数軒程度の小規模な集落に分散してしまうのであろう。長野市では、長野オリンピックのアイスホッケー会場となったピックハット付近の芹田東沖(せりたひがしおき)遺跡や、吉田二丁目にある浅川端遺跡、松代町の屋地遺跡、信更町の宮ノ下遺跡などで、竪穴住居跡が確認されているにすぎない。ただし、篠ノ井の塩崎遺跡群だけは拠点的集落が継続的に形成されており、一般的な集落とは様相を異にしている。


図13 長野市域の奈良~平安時代の主要遺跡

 九世紀後半から一〇世紀代の平安時代中ごろになると、ふたたび千曲川自然堤防上などに巨大な拠点的集落が登場する。長野盆地で発見される平安時代の遺跡の多くがこの時期にあたる。とくに千曲川沿岸では、篠ノ井の塩崎遺跡群や篠ノ井遺跡群、松代の四ツ屋遺跡や松原遺跡、若穂の綿内遺跡群など、竪穴(たてあな)住居跡を中心とした大規模かつ拠点的な集落が展開している。これらは自然堤防などの微高地(びこうち)上に立地し、背後の広大な後背湿地(こうはいしっち)を生産域として水田耕作を営んでいたと考えられる。篠ノ井遺跡群の背後にある後背湿地には石川条里遺跡が展開しており、近年の調査では洪水で埋もれた弥生時代から中世にいたる条里化された水田が発見されている。こうした遺跡の立地は弥生時代からみられる伝統的なもので、後背湿地の生産力が高かったことが考えられる。

 後背湿地を生産基盤とした拠点的集落とは異なる小規模な集落が、長野市のほぼ全域にひろがるのもこの時期である。低湿地や扇状地の扇央部など、水田耕作には不向きな未開発地域への土地開発が始められたものと考えられている。こうした現象は、松本盆地では八世紀には始まっている。これにたいして長野盆地では、後背湿地の生産力が高かったため、九世紀後半までその必要性がなかったと考えられている。また山間部にも信更町の猪平(いのたいら)遺跡や宮ノ下遺跡、七二会の柏尾(かしお)南遺跡など小規模な集落が営まれている。飯綱高原にも下箕ヶ谷(しもみのがや)遺跡など平安時代後期の居住施設が検出されている。

 一一世紀以降、平安時代後半になると、これら自然堤防上の大規模な集落はしだいに縮小し、ほとんど消滅してしまう。そこに暮らしていた人びとがどうなってしまったのか、現在までの発掘調査の成果だけでは考えることはむずかしい。おそらく犀川(さいがわ)の氾濫原(はんらんげん)である川中島扇状地や旧裾花(すそばな)川の氾濫原、浅川・駒沢川流域などにひろがっているものと思われるが、篠ノ井東福寺の南宮遺跡をのぞくと大規模な集落はみられない。一二世紀以降は遺構の発見例がほとんどなく、土器が多量に捨てられた溝跡などが発見されているにすぎない。おそらく竪穴住居から平地住居へと移りかわり、人びとの生活様式が大きく変化しているものと考えられる。


写真43 信更町宮ノ下遺跡の発掘調査
長野市埋蔵文化財センター提供