現在の塩崎小学校付近を中心とする塩崎遺跡群は、千曲川左岸の自然堤防上に展開する、弥生時代中期前半から平安時代にいたる複合集落遺跡である。分布調査をもとに北から山崎遺跡、殿屋敷(とのやしき)遺跡、塩崎小学校遺跡、散畑屋敷遺跡、一本木遺跡、伊勢宮遺跡、中条遺跡、松節(まつぶせ)遺跡の八つの核が推定されている。ほかの遺跡とは異なり、古墳時代後期から奈良時代にかけて連綿と集落が継続していくようである。
昭和五十二年(一九七七)から三次にわたり発掘調査された塩崎小学校遺跡からは、一般の集落遺跡とは考えにくい遺構や遺物が確認されている。古墳時代後期から奈良時代の竪穴住居跡は約五〇軒を数え、周辺の遺跡が縮小・分散していることを考えあわせると卓越した存在である。壁ぎわに石を配列した礎石建物(そせきたてもの)の可能性が考えられる住居跡や、倉庫群と考えられている掘立柱(ほったてばしら)建物跡群も確認されている。また、「専司」と読むことのできる刻書須恵器(こくしょすえき)や硯(すずり)などが出土していることからも、古代の役所的な機能をもった集落、官衙(かんが)の可能性が考えられる地域である。
弥生時代から平安時代にいたる複合集落遺跡の篠ノ井遺跡群は、塩崎遺跡群と同じ千曲川の自然堤防上に位置しているが、聖(ひじり)川によって区分されている。中央自動車道長野線建設に先だつ発掘調査によって、古墳時代前期までの集落とは連続せず、七世紀末ごろからあらたにムラがはじまるらしいことが判明した。奈良時代の後半は集落規模が一時減少するものの、九世紀代は竪穴住居跡の数がもっとも多く、仁和四年(八八八)の大洪水以後はしだいに縮小していくようである。篠ノ井遺跡群の特徴として墨書(ぼくしょ)土器の多さがあげられ、九世紀代を通じて多量に出土し、一〇世紀代では少なくなる。また「大半」と刻まれた円形の銅印が出土している。北陸新幹線地点や県道長野上田線地点の発掘調査においても、桶(おけ)巻きづくりの平瓦(ひらがわら)を転用したカマドや、瓦塔(がとう)や塼仏(せんぶつ)などが出土しており、平安時代前半における大規模拠点的集落のひとつである。
川中島扇状地の中央部の遺跡は、犀川の洪水で流失されたか、あるいは地中深く埋没しているものと、近年まで考えられてきた。ところが、長野冬季オリンピックの開閉会式場となった南長野運動公園の建設工事をきっかけとした、平成五年(一九九三)からの発掘調査によって、一〇世紀から一一世紀中ごろまでの約一〇〇年間に、一二〇〇軒をこえる竪穴住居跡を主体とする大規模かつ拠点的な集落遺跡が、約八ヘクタールの範囲に展開していることが判明した。一辺一〇メートルをこえる大型住居跡一〇軒以上や、溝をめぐらす掘立柱建物跡、そしてカマドの煙道(えんどう)を暖房施設として利用したオンドル状遺構などが発見された。また、四隅と中央に高坏(たかつき)など数個を配置した、鎮魂儀式を想定させる祭祀(さいし)遺構なども検出されている。出土遺物は豊富で、多量の土師器(はじき)、灰釉(かいゆう)陶器などの土器のほか、鉄鏃(てつぞく)や刀子(とうす)、火熨斗(ひのし)などの金属製品、多量の鉄滓(てっさい)や金鉗(かなばさみ)などの鍛練鍛冶(たんれんかじ)(小鍛冶)関係品、砥石(といし)や土錘(どすい)などが出土している。また、八稜鏡(はちりょうきょう)六面や帯飾り、さらに銅椀(どうわん)や陶印などの特殊な遺物も出土しており、単なる農耕集落とは考えにくい状況である。