このような古代の集落遺跡から発見される遺物のなかには、一般の人びとの生活道具とは考えられないような特殊なものが発見されることがある。それらは古代の役所である官衙(かんが)的様相と、寺院などの宗教的様相に大きく分類することができる。
官衙的様相をしめす遺物としては、まず現在の長野県庁付近にある県町(あがたまち)遺跡から出土した蹄脚硯(ていきゃくけん)があげられる。つぎに銙帯(かたい)金具とよばれる飾り金具がある。これは官衙につとめる役人の腰帯に、官位の表示として装着されていたもので、ベルトの両端にはバックル部分にあたる鉸具(かこ)と帯尻(おびじり)の鉈尾(だび)がつき、装飾品には半円形の丸鞆(まるとも)と方形の巡方(じゅんぽう)がある。銅製の丸鞆は浅川扇状地遺跡群牟礼バイパスD地点、吉田古屋敷遺跡、屋地遺跡(皆神台)、南宮遺跡から出土し、綿内遺跡群の高野遺跡からは銅製の巡方が出土している。平安時代になると金属製品の使用が制限されたため、かわって石製品がもちいられるようになった。石帯は長野市でも比較的多く出土し、南宮遺跡では丸鞆、巡方、鉈尾がそろっており、松原遺跡からも巡方が出土している。印章は篠ノ井遺跡群から「大半」と記された円形の銅印が、南宮遺跡からは「宗清」と記された方形の陶印が出土している。八稜鏡は南宮遺跡の六面をはじめ、田中沖遺跡から一面、二ツ宮遺跡(稲田)から一面が出土している。皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん)は和銅開珎(わどうかいちん)(ほう)をはじめとする奈良時代の三種と平安時代の九種の銭貨である。長野盆地出土の皇朝十二銭は表2のとおり一〇種一四枚をかぞえるが、長野市域では奈良時代のものはまだ発見されていない。
特別な貴重品として、更埴市屋代遺跡群から出土した唐三彩(とうさんさい)の枕があげられる。唐三彩は中国の唐代につくられた舶載品で、白地に緑色と黄色の釉(うわぐすり)がかけられた施釉(せゆう)陶器の一種である。また、この唐三彩を模して奈良時代に国内でつくられた、奈良三彩とよばれる施釉陶器の破片が、棗河原(なつめがわら)遺跡(篠ノ井西寺尾)と更埴市社宮司(しゃぐうじ)遺跡から出土している。緑釉陶器(りょくゆうとうき)は南川向(みなみかわむこう)遺跡(北尾張部北長池)、西方(にしがた)遺跡、寺村遺跡、若穂綿内の榎田・高野・南条の各遺跡、棗河原遺跡、南宮遺跡など多くの遺跡で出土している。
宗教的様相の遺物としては、まず篠ノ井遺跡群から出土した塼仏があげられる。とくに平成十年(一九九八)に出土した塼仏は、奈良県の唐招提寺戒壇院から出土したものと同じ鋳型からつくられた可能性があり、現在のところ地方出土としては唯一の貴重な例である。このほか二ツ宮遺跡からは鴟尾(しび)片が出土し、また瓦塔も稲添遺跡(稲田)、田牧居帰(たまきいかえり)遺跡、篠ノ井遺跡群から出土している。田牧居帰遺跡からは裏面に線刻のある硯も出土しており、二ツ宮遺跡とあわせ宗教的様相の強い遺跡である。善光寺の門前にあたる元善(もとよし)町遺跡からは、文様構成に特徴のある、いわゆる善光寺瓦とよばれる軒丸瓦(のきまるがわら)や軒平瓦(のきひらがわら)が採集されている。浅川扇状地遺跡群牟礼バイパス各地点からも、九世紀代の住居跡から多量に出土した軒丸瓦、軒平瓦、丸瓦、平瓦にまじって善光寺瓦が出土している。銅椀についてはこれまで、仏教の飲食(おんじき)供養具の一種としてのみ考えられていたが、七世紀から八世紀代においては、身分秩序をあらわす食膳具の頂点としての価値もあったのではないかと最近では考えられている。終末期古墳などからの出土が多い遺物であるが、長野県では集落遺跡からの出土も増加している。長野盆地では屋地遺跡、榎田遺跡、南宮遺跡から破片が出土し、浅川扇状地遺跡群牟礼バイパスC地点からは、ゆがんではいるものの完全な形の銅椀が出土した。
これらの出土遺物からは、ただちに古代の役所であるとか、古代寺院が存在したという断定はできないが、さまざまの可能性を示唆している遺物であることにはまちがいはない。