古代のムラに住む人びとの生活も、これまでの様式から徐々に変化していることは、発掘調査成果を詳細に分析することによってわかりつつある。人びとが住む家や厨房(ちゅうぼう)施設、生活道具などから読みとることができる。
都のあった近畿地方ではこの時期、一般の人びとでさえ竪穴住居ではなく平地住居に変わっているのにたいし、信濃など地方の一般の人びとは依然として竪穴住居で暮らしていた。
奈良時代の竪穴住居は、前代までのものと構造的には大きな差異は認められない。四本柱で上屋(うわや)をささえる構造をもち、平面形はほぼ正方形で比較的大きめである。芹田東沖遺跡の奈良時代竪穴住居跡は、一辺が約七・五メートルの大型であった。ところが、平安時代になるとしだいに小型化していき、およそ一辺四・五メートルくらいになってしまう。また、住居内の主柱穴がなくなり、床面に痕跡(こんせき)を残さないような柱か、壁のみによって上屋をささえていた構造に変化しているものと考えられている。奈良時代にくらべると、住居の大きさや方向、カマドの設置場所などの規格性・統一性がしだいに薄れてくるようである。掘立柱建物も多く密集して建てられ、大きさや方向、建設場所などにある程度の規格性・統一性が認められる。綿内遺跡群の南条遺跡では、平安時代の井戸跡が多数検出され、木製井戸枠の設置方法や、井戸にまつわる祭祀形態にもさまざまな種類があることがわかった。
古墳時代中期から長野盆地に登場したカマドは、より立体構造化し熱効率をアップさせたものとなっている。さらに小型化するとともに、住居内での設置位置も壁の中央部から隅へしだいに移動し、住居内空間の効率的利用をはかっている。猪平遺跡では、住居跡の隅に設置されたカマドが検出されており、さらに煙突の機能をもつ煙道がカマド本体からななめに付設されていた。住居内をひろく使うために、カマドそのものをコンパクトにまとめたのであろう。また、カマドから排出される高温の煙を利用して暖房施設としたオンドル遺構が、南宮遺跡などで見つかっている。このほか、住居の壁ぎわに石を配列する礎石建物など特別な施設を併設した住居も、塩崎小学校遺跡や浅川西条遺跡などで散見されるようになる。
この時期の遺跡から出土する土器は、坏(つき)や椀(わん)などの食膳具や、煮炊きに使用する甕(かめ)などの調理具、食料や水などを保管する貯蔵具などに分類することができる。
食膳具では、近畿地方を中心とする律令的土器様式(食器の種類や形態、組み合わせなどに、律令制度にもとづく身分序列を反映させたもの)の影響が、七世紀代には長野盆地にも見えはじめるが、一般の人びとにまでは浸透しなかったと考えられる。奈良時代の食膳具は土師器にたいする須恵器の割合が高くなる。須恵器の製作技法にも変化が認められ、坏の底部切りはなし方法は、八世紀後半から末ごろにはヘラ切りから糸による切りはなし方法へと変わっている。九世紀後半からは、岐阜県東部で生産された灰釉陶器が移入されはじめ、須恵器はしだいに減少、消滅していく。灰釉(かいゆう)陶器も松本盆地など中・南信にくらべるとその量は少ない。
調理具で煮炊きに使用する土師器の甕は、九世紀代には北陸地方とくに新潟県からの影響により、平底の長胴形から丸底の砲弾形へと転換し、長野盆地ではこれが主体となる。群馬県や東信地方から搬入された、いわゆる武蔵型甕もみられるようになる。これら土師器の甕は、一一世紀には羽釜(はがま)とよばれる鍔(つば)のついた土器へと変化し、そのあと鍋(なべ)や鉄製の釜へと移りかわっていく。貯蔵具は七世紀まで土師器と須恵器の二種類が使用されていたが、八世紀以降は須恵器の大甕が主体的に使用されるようになる。
ムラに住む人びとが使用した、さまざまな生活道具も数多く発見されている。木製品は腐食しやすいため発見されることが少ないが、低湿地など水分が多い場所に密封パックされた状態であれば発見されることがある。木製品には鍬(くわ)・鋤(すき)・えぶり・田下駄(たげた)・田舟・杵(きね)などの農具、弓・矢筈(やはず)・鞘(さや)などの武器あるいは狩猟具、櫛(くし)・下駄などの服飾具、紡錘車(ぼうすいしゃ)・榺(ちきり)・杼(ひ)などの紡織具、刳物(くりもの)・挽物(ひきもの)・曲物(まげもの)・箸(はし)などの容器や食膳具、柱・垂木(たるき)・梯子(はしご)・板・杭(くい)などの建築部材、鳥形・馬形・斎串(さいぐし)・琴・呪符木簡(じゅふもっかん)などの祭祀具、腰掛け・台などの雑具があり、このほか籠(かご)などの編物や樹皮製品などがある。
金属製品では、農具である鉄製の鎌(かま)の出土が圧倒的に多い。このほか工具として、刀子(とうす)・紡錘車(ぼうすいしゃ)・苧引(おびき)金具・金鉗(かなばさみ)など、武器または狩猟具として鉄鏃(てつぞく)などの出土が比較的多い。田中沖遺跡では竪穴住居跡から馬具も出土している。信濃では、平安時代には一六の御牧(みまき)のほか三〇前後の牧が存在しており、馬の飼育は盛んであった。長野市域では松代町大室が大室牧の比定地となっており、田中沖遺跡とは千曲川をはさんで近くにある。