手工業生産の展開

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奈良時代から平安時代にかけては、水田耕作など農業以外の手工業生産についても、一部の集落の生業基盤として発展したことが考えられている。手工業生産とは、人びとの生活に関するさまざまな道具をつくることであり、おもに加工を中心とする生産工程である。土師器や須恵器などの土器生産や瓦生産、鉄や銅など金属の生産や加工、編物や織物などの加工、漆製品をふくむ木製品の加工、そしてガラス加工や農産品の二次加工などもふくまれる。

 土器のなかでも須恵器生産は、窖窯(あながま)焼成やロクロ成形などの特殊な技術が必要となることから、専門の製作工人集団が想定されている。県内の窯業生産遺跡は現在までのところ、六世紀初頭の信更町松ノ山古窯(こよう)跡がもっとも古い例である。しかし、この窯(かま)は短期間の操業であったらしく、以後継続することはなかった。七世紀中ごろになると、茶臼峯(ちゃうすみね)九号窯跡がある中野市長峯(ながみね)丘陵や、佐久市石附(いしづき)窯跡で須恵器生産が開始された。八世紀以降になると長野市域においても、信更町を中心とする聖山(ひじりやま)東麓や、若槻田子の髻山(もとどりやま)山麓、松代町東条の三ヵ所で須恵器を生産するようになる。このころになると、諏訪・上伊那・木曽谷を除いたほぼ全県で須恵器が生産されている。しかし、九世紀末から一〇世紀はじめごろには須恵器の生産は停止したようである。


写真49 田中沖遺跡出土の鉄製品
長野市埋蔵文化財センター提供

 これらの窯の成立には、当時の窯業生産の中心地であった東海地方、とくに愛知県の瀬戸市域を中心とする猿投(さなげ)山西南麓古窯跡群や、岐阜県各務原(かがみはら)市域を中心とする美濃須衛(すえ)古窯跡群などの技術的な影響をうけているらしい。また、信濃の須恵器生産の特徴として、凸帯付四耳壺(とったいつきしじこ)があげられる。最近では新潟県や山梨県、埼玉県などでも出土例が報告され、遠くは青森県でも見つかっているが、長野県からの出土量が圧倒的に多い。以前は蔵骨器(ぞうこっき)としての用途が考えられていたが、現在では古代信濃における特徴的かつ主要な貯蔵具として生産され、そして供給されたものと想定されている。


写真50 凸帯付四耳壺 (松原遺跡)
長野市埋蔵文化財センター提供

 松代町東寺尾の千曲川自然堤防上に立地する松原遺跡は、弥生時代中期後半から平安時代にいたる複合集落遺跡である。平成元年(一九八九)からの上信越自動車道建設や、周辺の道路改良などの工事にさきだつ発掘調査によって、とくに弥生時代中期後半と平安時代中ごろには、数百軒の竪穴住居を主体とする大規模な拠点的集落であることがわかった。平成二年に発掘調査した、農協集出荷施設地点の竪穴住居跡から出土した須恵器と土師器に、同じ「〓」状の刻印があった。このことは、須恵器と土師器が同一の製作工人集団によってつくられた可能性が高いことをしめしている。古墳時代中期に朝鮮半島から伝わった須恵器の製作技術は、土師器などこれまでの日本の伝統的な土器製作技法とは大きく異なっており、それぞれ専門の製作工人集団が想定されている。しかし八世紀になると、須恵器と土師器の一元生産がすすめられ、須恵器の特徴であるロクロ成形技術などが土師器にも応用されるようになる。また、窖窯をもちいた還元焔(かんげんえん)焼成により、ねずみ色で硬く、こわれにくいのが須恵器の特徴であるが、なかには意識的に赤褐色で軟質にしあげたと思われるような須恵器もある。

 長野盆地で出土した最古の鉄製品は、弥生時代中期にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、これらはもちこまれたもので長野盆地でつくられたものではなかった。長野県の製鉄関連遺構は、古くは古墳時代後期にその痕跡が認められるものの、九世紀中ごろの平安時代になって本格的にひろがっている。古代の製鉄関連遺構には、原料となる砂鉄や岩鉄を採掘する採鉱(さいこう)遺構、原料から鉄分を取りだす製錬(せいれん)遺構、その鉄分を純度の高い鉄にする精錬鍛冶遺構(大鍛冶(おおかじ))、その鉄素材から鉄製品をつくる鍛練(たんれん)鍛冶遺構(小鍛冶(こかじ))、地金(じがね)から鋳造品をつくる鋳造(ちゅうぞう)鍛冶遺構、精錬・鍛冶に用いる木炭をつくる製炭窯(せいたんよう)などがある。このうち鍛練鍛冶遺構(小鍛冶)は、南宮遺跡や高野遺跡、七二会の柏尾南遺跡などでも発見されているが、そのほかの遺構については、長野市域での確認例はきわめて少ない。


写真51 土器にみられる刻印 (松原遺跡)
左が土師器、右が須恵器  長野市埋蔵文化財センター提供

 平成三年に、県道中野更埴線道路改良工事に先だって実施した松原遺跡の発掘調査では、九世紀後半から一〇世紀代の土器が廃棄された三本の溝は、まるで弥生時代の環濠(かんごう)集落のように集落を取りまいていた。その近くから製錬炉状(せいれんろじょう)遺構が一〇基検出された。製錬とは原料である砂鉄や岩鉄から、鉄分を取りだす作業工程のことである。検出された遺構は自立型円筒製錬炉(じりつがたえんとうせいれんろ)とよばれる、一〇世紀の前半から中ごろにつくられたもので、製錬炉としては長野県内でも古い段階のものである。同じ松原遺跡でも、高速道地点から出土した坩堝(るつぼ)や磬(けい)の鋳型などから、鋳造鍛冶遺構の存在も推定することができ、製鉄に関する工程の一部を松原遺跡がになっていた可能性が考えられる。

 植物を材料とした生活道具は、発掘調査で発見されることがきわめて少ないものの、日本全国で使われていたと考えられている。植物を薄く板状や棒状にのばしてつくる網代(あじろ)・簀(す)・籠(かご)・網(あみ)などを編物といい、植物を繊維状にして撚(よ)りをかけて糸を紡ぎ、それを織ったものを織物とよぶ。布などの織物をつくる紡織加工には、糸をつくることから織物にするまでのさまざまな工程がある。低湿地などの湿気の多い遺跡からは、榺(ちきり)や椱(ちまき)、杼(ひ)などの機織具がまれに発見されることがあるものの、集落遺跡で確認される紡織具のほとんどは、素材に撚りをかけて糸にするための紡錘車である。紡錘車の材質には石や骨、土器の破片を転用したものなどがあるが、平安時代には土製品から鉄製品へと移りかわってゆく。


写真52 松原遺跡の製錬炉状遺構
長野市埋蔵文化財センター提供