終末期古墳の主体部である横穴式石室への埋葬は、近畿地方などよりかなり遅れ、八世紀前半までつづいていたものと考えられている。若穂の長原古墳群や、松代の桑根井鎧塚(くわねいよろいづか)古墳群には、七世紀末から八世紀初頭につくられたと考えられる古墳もある。これらの古墳には、古墳時代後期の群集墳のように数人を埋葬する古墳とは異なり、主体部の小型化がしめすように、個人のための墓へという変化が認められる。長野盆地では確実な例が未確認だが、石組墓が松本市安塚・秋葉原古墳群などにつくられている。この時期近畿地方では、いちはやく仏教思想による火葬の概念が浸透していたが、長野盆地では八世紀から九世紀にかけて一時的に導入されたにすぎない。わずかに更埴市の五輪堂(ごりんどう)遺跡や上ノ田(うえのた)遺跡など、数例の火葬墓が検出されているだけである。九世紀後半からはふたたび土壙墓(どこうぼ)を中心とした土葬の墓制へと変化し、篠ノ井にある鶴前(つるまえ)遺跡の土壙墓や、榎田遺跡・松原遺跡の木棺墓(もっかんぼ)などが確認されている。これらは集落の近くにつくられており、山地など古墳時代以来の伝統的な墓域から離脱しているのが特徴である。しかし、松代町大室にある村東山手遺跡のように、古墳時代の横穴式石室を再利用した墳墓も発見されており、墓域としての認識は依然つづいていたものと考えられる。
松原遺跡の平成三年の発掘調査で、全長二〇八センチメートル、幅八八センチメートルの規模をもつ、一一世紀初頭につくられた木棺墓が確認された。供献された土器が九個体出土しており、その出土状況から、木棺上におかれたものと棺内におかれたものに区分できる。検出した人骨は、仰向けで手足をのばした状態で埋葬されていて、遺存状態はきわめて良好であり、発見直後の骨の色はあざやかな赤褐色であった。人骨鑑定によると、壮年期の男性である可能性が指摘されており、古代松原ムラにおける有力者の墓と考えられている。
これらの墓の発見例は、古墳の数にくらべてみてもきわめて少ない。このことから、墓へ葬られる人は当時の人びとのなかのほんの一部にすぎないことがわかる。つまり、墓をつくり死者を葬るという行為は、古代ムラの有力者にとってその権威の継承儀礼をしめすものである可能性が考えられる。それでは有力者ではない一般の人びとの死後はどうであったのか。地面に穴を掘って埋めただけの土壙墓ですら、発見例は多くないことを考えると、死体を河原や山の岩陰などに放置した風葬(ふうそう)が考えられる。