条里的遺構と水田遺跡

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善光寺平は上田盆地とならんで、長野県のなかでももっとも広範囲に条里的遺構が残存する地域である。そこで、地表面に残る条里的遺構の分布についてみることにしよう。ただし、いずれも高度経済成長期を中心とする圃場整備事業や市街地化の進展で姿を消した。ここではまず、善光寺平四郡の条里的遺構について概観してみる。


図18 主な条里的遺構の分布 (『県史通史』①)

 更級郡の条里的遺構は、篠ノ井石川・四宮(しのみや)、上山田町力石・中村、更埴市八幡(やわた)・桑原・稲荷山(いなりやま)の各地区に分布している。とくに更埴市八幡地区の扇状地、篠ノ井塩崎・同石川・同二ツ柳地区の千曲川左岸の後背湿地の条里的遺構は、比較的広範囲にわたるものである。後者に関しては、長野自動車道建設にともない石川条里遺跡の発掘調査がおこなわれ、表面条里と埋没条里とは基本軸はほぼ一致するが、区画では一致しないところが多いこと、九世紀末仁和(にんな)四年(八八八)のいわゆる仁和の洪水の洪水砂によっておおわれ、表面条里はその後の再開発によるものであること、などが明らかになった。


図19 長野市域と周辺の条里的遺構の分布

 水内郡については、『長野県史』などで旧長野市街地(『和名抄』の芋井郷、尾張郷の地域)の条里地割の復元への試みがなされたが、旧市街地の条里的遺構が統一的なものであるかどうかについては明らかになっていない。これにたいし、北陸新幹線にかかわる浅川扇状地遺跡群の発掘調査によって、三輪地区の開発を考えるデータが提供され、古墳時代には水田として開発がなされていたこと、ただしその区画は浅川扇状地の地形に沿ったもので、一辺が二~四メートルの小さな区画の水田であったこと、などが明らかになった。このほか、豊野町石・蟹沢(かにさわ)地区にも条里的遺構があった。現在判明している水内郡の条里的遺構の北限である。旧市街地を中心とした条里的遺構については、のちにやや詳しくみることにする。


写真54 三輪地区に残る条里的地割(昭和22年航空写真)

 埴科郡では、更埴市屋代・雨宮(あめのみや)・倉科・森、坂城町南条から中之条、長野市域の松代町の各地区にわたって条里的遺構がみられた。このうち屋代・雨宮地区については、先に述べたように、昭和三十年代後半に長野県教育委員会による先駆的な更埴条里遺跡の発掘調査がおこなわれ、埋没条里の存在が全国ではじめて明らかになった。その後、上信越自動車道にかかわる発掘調査によって、さらにつぎの諸点が明らかになった。千曲川ないしその旧流路から取水した大規模な基幹的な用水堰(せぎ)を用いた開発が古墳時代には始まっていたこと。その用水は自然堤防を越えて水を回す人工的な開発によっていたこと。九世紀末の千曲川の洪水(仁和の洪水)による砂層を剥(は)ぐと、自然堤防から後背湿地南端にいたる地域がほぼ全面的に条里的区画によって区画されていたこと。この区画は、表面条里とは大畦(おおあぜ)の位置ではほぼ一致するものであるが、坪内の区画や水回しは九世紀末の仁和の洪水以降の再開発で大きく変化していること、などである

 高井郡については、若穂川田・綿内地区に残るが、上信越自動車道開設にあたり川田条里遺跡の発掘調査がおこなわれた。ここでは、千曲川のたび重なる洪水によって埋もれた、弥生後期、古墳後期、奈良、平安、中世(鎌倉)、近世(江戸)の水田区画・用水路が重層的に検出され、各時期の開発の様相が明らかにされつつある。そこで、これらの成果をふまえて、川田条里遺跡の弥生時代以来の地割の移り変わりについてまとめてみると、つぎのようである。

 善光寺平で水田跡が確認できるのは弥生時代中期で、自然地形を利用した不定型で小規模な水田区画がみられる。一つの区画が三〇平方メートルくらいで、大きな畦(あぜ)で全体を計画的に仕切るという開発の仕方をとらず、したがって大規模な用水はみられず、畦越しの灌漑(かんがい)が主体となっている。

 古墳時代中ごろ以降になると、大きな畦が出現し、それによって仕切られた内部に小さな区画の水田がつくられる。大畦は自然地形に規定されるためにしばしば蛇行(だこう)することもあるが、大畦に水路がともなう場合もみられるようになり、用水体系も整備されはじめる。こうした状況は、基本的に奈良時代まで引き継がれるが、一部には、平安時代になって本格的に展開する条里型地割に先行して、奈良時代につくられた地点も確認されている。

 平安時代の九世紀後半になると、おおよそ全面的に条里型の地割が展開するようになる。一町(約一〇九メートル)前後の間隔で大畦が直行し、地形に規定されないで全体が東西南北の正方位の方向をとるようになる。この時代につくられた条里地割は、大畦内部の一筆の区画の形状には変化がみられるものの、現代の圃場整備事業によって一〇〇メートル間隔に道がつくられるまで継承されている。

 このような石川条里、川田条里、更埴条里の各遺跡の発掘調査によって明らかになった成果に共通する点は、いずれも九世紀はじめころに条里的地割にもとづく開発がなされた可能性が高いということであろう。そこで、水内郡とりわけ旧長野市街地にみられる条里地割(条里的遺構)をやや詳しく検討し、善光寺平の条里的開発の様相について考えてみたい。