旧長野市街地は裾花川扇状地に立地するが、ここに広範囲にわたる条里的遺構が分布する。その条里遺構は大別して、①三輪・吉田地区の条里(写真54)、②古牧・朝陽・柳原地区の条里(写真55)、③浅川以北の若槻地区の条里に大別できる。『県史通史』①では、旧市街地の条里遺構が全体として統一的な計画にもとづくものであったかどうか断定を避けているが、図20のように、これらの地表面に残された条里遺構のプランは、若槻地区もふくめほぼ統一的なものであると考えられる。
この条里的遺構の分布は、①は古代の『和名抄(わみょうしょう)』の芋井(いもい)郷を中心とした地域に、②は同じく尾張(おわり)郷・古野郷を中心とした地域に、③のうち稲田・徳間・檀田(まゆみだ)は芋井郷、吉(よし)・田子(たこ)は大田郷を中心とした地域にひろがっていると考えられる。ただし、こうした条里的遺構の景観がいつごろまでさかのぼることができるのかという点については、この地域の地形の変遷や用水体系の変遷とあわせて考える必要がある。
地形について考えなければならないのは、千曲川と犀川の流路の問題である。古代の千曲川は現在とくらべると、大きく流路を異(こと)にしていた可能性が高い。『和名抄』にみえる水内郡の八郷、すなわち芋井・大田・芹田・尾張・大島・古野・赤生(あかふ)・中島(なかしま)のうち、芋井・大田・芹田・尾張・古野の五ヵ郷については遺称地がいずれも現在の千曲川の左岸、犀川の北岸、すなわち裾花川扇状地の内に存在する。これにたいし、大島郷は小布施町大島、中島郷は須坂市中島で、いずれも現在の千曲川右岸の旧高井郡にその遺称地を求めることができる。赤生郷にいたっては明確な遺称地が見いだせない。このことは、古代に存在したこれらの郷が、千曲川の流路の変更によって郷自体が埋没した可能性が高いことを示している(第三章第二節参照)。市街地の東端、千曲川と接する部分(柳原・大豆島地区付近)の景観は大きく変化していることが予想されるのである。
犀川の流路の変遷については不明な点が多いが、裾花川扇状地の南端には犀川によって形成された段丘崖(だんきゅうがい)がみられ、犀口(さいぐち)を扇頂として南北にいく筋かの脈流となって流れていたものと思われる。川中島扇状地の上堰(うわせぎ)・中堰(なかせぎ)・下堰(しもせぎ)は、平安後期の布施御厨(ふせみくりや)(篠ノ井付近)、富部御厨(とべみくりや)(川中島町御厨付近)の開発にともなって犀川の旧流路を再開発したものと考えられている(第三章第三節参照)。川中島扇状地には地表面に条里的遺構は残っておらず、埋没条里も今のところ見つかっていない。これは、古代から中世にかけてこの地域が条里的開発の対象地とならなかったことを示していると考えられる。
つぎに、これらの条里地割地域内を灌漑する用水体系についてみてみよう。裾花川扇状地は、裾花川と浅川によって形成された複合扇状地であるが、かつての裾花川はこの扇状地を北西から南東方向にいく筋かの流れになって流れていた。現在の南北八幡川(堰(せぎ))がその旧流路であり、②古牧・朝陽・柳原地区はこの水系によっている。また、裾花川を水源に人工的な用水堰として鐘鋳堰(かないせぎ)(川)が開削(かいさく)された。①三輪・吉田地区はこの用水によっている。いっぽう、浅川はこの扇状地の北部を流れ、その左岸にあたる③若槻地区の水源となっている。一七世紀半ばの『松代封内(ほうない)図』(図22)に描かれた浅川は、ほぼ東をめざして流れ、長沼地区の南で千曲川に注いでおり、現在の流路とは異なった流路が存在したことがわかる。じっさい、北陸新幹線建設にともなう浅川扇状地遺跡群の発掘では、扇状地を横断的に調査することにより、浅川の流路が弥生時代から古墳時代にかけて北西-南東から北北西-南南東、北西-南東と振り子のように移動をしていたらしいこと、この浅川の氾濫(はんらん)によって居住域がかなりひんぱんに変動したらしいことなどがわかったのである。