条里的遺構のプランとその起源

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これらの条里的遺構は何を基準に設定されているのであろうか。全国の事例から考えると、条里を区画する大道(畔(あぜ))は、その地域で目印となる山(山頂ないし谷)、あるいは神社や官道などを基準に設定されることが多い。そうした視点で条里の施行範囲についてみると、その浅川以南における北限は、美和(みわ)神社(三輪相ノ木)付近にあり、また南限は高田の芋井神社(古牧高田)付近(南向塚(なんこうづか)古墳付近)から風間神社(大豆島西風間)付近にある。美和神社以北の地域は、浅川によって形成された扇状地の扇央から扇端部にかけての地下水位が低い地域にあたっており、ため池などを用いた開発が近世になってのものであることから、近世以前には開発の対象外であったと考えられる。いっぽう、芋井神社のすぐ南には犀川によって形成された二メートルほどの河岸段丘があり、これ以北が条里的開発の対象地であったことを示していると考えられる。

 ところで、南北八幡川による灌漑地域のうち、六ヶ郷用水沿いには条里区画が乱れた場所があり、他の地区との統一性に欠ける部分がみられる。この地域は地形的にもゆるやかにくぼんだ西側に入りこむ谷地形で、開発が他の地区から遅れた可能性がある。六ヶ郷用水は、守田廼(もりたの)神社(古牧高田)付近で北八幡川から分水しているが、中沢川(堰)の下をサイホンで通過するという形をとっている(写真56)。六ヶ郷用水は、その交差の形式からすると明らかに中沢川よりもあとからの開削であると推定できる。そこで、この中沢川についてみると、これは平安時代末期松尾社によって再開発された「今溝」と考えられていることから、六ヶ郷用水の開削が平安時代末以降であることが推測できるのである(第二編第三章第三節参照)。用水開発の時期の差が条里の統一性を欠く原因ともなっていると考えることができるのである。

 このようにみてくると、平安時代末以前の②古牧・朝陽・柳原地区、すなわち尾張郷を中心とする地域の用水は、南北八幡川(かつての裾花川)を基本として考えることができるのである。

 つぎに、①三輪・吉田地区、すなわち『和名抄』芋井郷の地域については、鐘鋳堰の開削時期が問題となる。これまでに、古代(律令期)からとするものと、平安末期以後に下るとする考えが出されている。鎌倉時代末の『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』には、善光寺の南大門前に鐘鋳堰が描かれているから、鎌倉時代に存在したことは間違いない(写真57)。また先に述べた中沢川はこの鐘鋳堰から分かれるから、本体である鐘鋳堰の開削時期は平安末期以前と絞りこむことができる。いっぽう、この鐘鋳堰の灌漑範囲は三輪地区全体にわたっているから、三輪地区の地割が全面的に条里地割になった時期と堰の開削時期とは同時期と考えざるをえない。

 そこで、善光寺平の水田遺跡の発掘調査で平安時代(九世紀)に条里的地割の全面施行が確認されていることから推測すると、この地域の用水開削と条里的地割の施行はおおよそ平安時代はじめに求めることがもっとも可能性が高いのではなかろうか。


写真57 一遍上人絵伝に描かれた鐘鋳堰 (十日町市来迎寺蔵)

 では、鐘鋳堰開削以前の三輪地区の用水のようすはどうであったのだろうか。鐘鋳堰のルートを追ってみると、裾花川から分かれたあと、現在の長野県庁裏の段丘上を等高線にそってすすみ善光寺のある台地を回りこむ。その後湯福川の下をくぐり、堀切沢と合流するが、その合流の仕方に特徴がある。すなわち、両者が出会う地点でただちにひとつの流れにならず、しばらく並行に流れたあとに合流し、松林幹線を南下させている点である。これはこの合流点以西の鐘鋳堰が開削される以前には、堀切沢が合流点以東の現鐘鋳堰の本流であり、また松林幹線の本流でもあった可能性を示している。三輪地区は当初は堀切沢、湯福川、そしてしばしば流路を変えた浅川の分流の名残と考えられる宇木沢などの沢水灌漑がおこなわれ、その後鐘鋳堰が開削され、それと並行して条里的地割が施行されたと考えられよう。

 なお、三輪地区の開発を考えるうえで、湯福川・堀切沢による押し出し地形の問題は重要である。平成九年の市道中2号線開設にともなう善光寺下の発掘調査で、付近は湯福川の押し出しによる土砂堆積が数メートルにおよぶことがわかった。近世の善光寺本堂の移転にともなう湯福川の流路変更後の現在でも、鐘鋳川の上を湯福川が交差する樋掛(といが)かり(走越(はせこし))になっている。この地点は、近世にしばしば湯福川の土砂によって鐘鋳川が埋まり相論(そうろん)となっている。近世以前には湯福川や堀切沢による押し出しは、広範囲におよんだものと考えられ、それによる再開発もおそらくたび重なったものであると思われる。今後の発掘調査でこうした災害のようすがより詳しく明らかにされるであろう。


写真58 堀切沢(右)と鐘鋳堰(左)との合流地点

 これらのことから、平安時代以前には、旧長野市街地のうち浅川扇状地の扇端部付近(三輪地区)では堀切沢・湯福川などの谷水、あるいは浅川の伏流水による灌漑にもとづく水田開発がおこなわれたと思われる。その地割は、浅川扇状地遺跡群の古墳時代の水田がそうであったように、二~四メートルの小区画水田で、扇状地の地形に沿った、北西から南東へと傾斜する地割であったのではなかろうか。

 ところで、先に述べたように、現在の善光寺仁王門から東へ向かってのびる、近世に「中道(なかみち)」とよばれた一直線の道が条里の区画の上にのることがわかる(図20参照)。これは善光寺の伽藍(がらん)計画と条里(道)のプランが一致していることを示しており、相互に関連をもって施行されたことを意味している。しかも、この道筋に一致して古代(九世紀ころ以前)のものと思われる溝が見つかっていることから、これらの条里遺構の起源は中世からさらには古代へとさかのぼる可能性が大きいと思われるのである。