大化の改新を契機に確立へと向かった日本の律令国家は、天皇を中心として、政府の支配のおよぶ地域を化内(けない)、その外側の支配のおよばない地域を化外(けがい)とよび、化外に属する夷狄(いてき)として蝦夷(えぞ)(えみし)・隼人(はやと)を位置づけた。当時東アジアの一大帝国であった唐は、伝統的な中華思想から、みすがらの支配のおよばない周辺地域を「東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西戎(せいじゅう)・北狄(ほくてき)」と称した。日本の律令国家は、こうした中華思想をみずからの支配領域にも当てはめ、律令国家の支配に入らない人びとを蝦夷・隼人とよんだのである。
こうして七世紀後半から始められた中央政府の蝦夷対策は、八世紀後半からは本格的な武力侵略として展開した。この過程で、信濃国・美濃国(岐阜県)などの中部地方東半部は、兵站(へいたん)基地としての関東地方(坂東(ばんどう))の後背地としての役割をになうようになった。
畿内の政府は大化元年(六四五)の大化の改新後、大化三年に越(こし)(新潟県)に渟足柵(ぬたりのき)(新潟市)、翌年には磐舟柵(いわふねのき)(村上市)を設けた。磐舟柵には越・科野(信濃)から柵戸(きのへ)が送られており、科野がこのころの蝦夷政策の前線に位置していたことがわかる。とりわけ、北信濃は越に接する地域として、越への最前線に位置した。屋代木簡(やしろもっかん)から初期の国府ないし国レベルの機能をもつ施設、軍団などが屋代遺跡周辺におかれた可能性が指摘されているが、そうした背景のひとつには北信濃のこうした状況があったものと思われる。
北信濃のこうした状況は、和銅元年(七〇八)の越後国での出羽郡の建郡、和銅五年(七一二)の出羽国の建国など政府の蝦夷政策が日本海側に重点をおいていたころまでつづいたと思われる。新潟県三島郡和島村の八幡林遺跡からは、「沼垂城(ぬたりのき)」と記された養老年間(七一七~七二四)の木簡が出土しており、八世紀はじめころまでなお越の蝦夷にたいする対策が取られつづけていたことが判明した。
しかし、陸奥(むつ)に多賀城(たがじょう)(宮城県多賀城市)がおかれる神亀(じんき)元年(七二四)前後から、中央政府の蝦夷政策の中心は越から陸奥に移る。そして坂東(関東地方)が兵士徴発や兵粮(ひょうろう)などの物資補給の前線となる。こうした政策転換は信濃国内の政治にも影響をおよぼしたことが考えられる。八世紀中ごろには信濃の国府も善光寺平から都と坂東を結ぶ東山道沿いの小県郡へ移転した可能性があるが、その背景にこうした政策転換があったと考えることもできる。
宝亀(ほうき)十一年(七八〇)の伊治砦麻呂(これはるのあざまろ)の乱に始まる武力制圧の時期になると、坂東にはふくまれない東山道の信濃や東海道の駿河(するが)(静岡県)にも武器・柵戸・正税などの負担が割りあてられた。いっぽう、蝦夷征討と並行してすすめられた平安京造営には主に西日本の諸国が動員されたが、延暦(えんりゃく)十六年(七九七)には雇夫二万四〇人を遠江(とおとうみ)(静岡県)・駿河・出雲(島根県)と信濃から差しだすよう命じているから、桓武朝の「軍事と造作」という国家的事業は東山道の信濃国・東海道の駿河国を境界として負担を東国・西国で分けていたことがわかる。信濃は東国に属しながら碓氷坂(うすいざか)以東の坂東とは異なる位置づけであった。
九世紀はじめの桓武(かんむ)天皇のときには、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任じられ蝦夷征討にたずさわった。県内の各地には田村麻呂に関する伝承が寺社の縁起などに伝わるが、若穂保科の清水寺には坂上田村麻呂が蝦夷征討の途次に戦勝を祈願して奉献したと伝える鉄鍬形(くわがた)がある。弘仁(こうにん)二年(八一一)の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の派遣をもって蝦夷にたいする武力制圧が終わる。服属した蝦夷は俘囚(ふしゅう)・夷俘(いふ)とよばれ、西国をふくむ各地に移住させられた。その多くは律令国家の秩序に取りこまれていったが、九世紀後半になると東国の俘囚が反乱を起こすにいたった。なかでも元慶(がんぎょう)二年(八七八)の秋田城での蝦夷の反乱(元慶の乱)は大規模なもので、陸奥・上野(こうずけ)(群馬県)・下野(しもつけ)(栃木県)から四〇〇〇人の兵が派遣された。それ以外にも、東海・東山両道諸国から「勇敢で軽鋭の者」二八〇人が選ばれて待機した。信濃からは三〇人が選ばれた。「勇敢で軽鋭の者」とは、当時地方で勢力をもちつつあった新興の富裕農民や、そうした新興層の台頭のなかで勢力の維持をはかった郡司(ぐんじ)層のなかから選ばれたもので、のちに兵(つわもの)(武士)として活躍する人びとの起源となったと考えられている。いっぽうで、群党、僦馬(しゅうば)の党とよばれるものたちの活動も活発化した。東山道の碓氷坂から東海道の足柄(あしがら)坂(神奈川県南足柄市等)を股(また)にかけて活動し、都へ運ばれる物資の強奪や横領をおこなったとして、しばしば取り締まりの対象となっている。貞観(じょうがん)三年(八六一)には武蔵(東京都・埼玉県)では「凶猾(きょうかつ)党をなし、群盗山に満つ」という状況にたいして検非違使(けびいし)がおかれ、寛平(かんぴょう)元年(八八九)には「東国の賊首」とよばれた物部氏永が反乱を起こすなど、九世紀の東国は大きな変動の時期を迎えていた。
坂東諸国における群党の蜂起(ほうき)、僦馬の党の動きは、新興有力者の台頭を背景とした東国の自立を予感させるものであった。当時の記録では、こうした群党による被害がもっともはなはだしかったのは信濃・上野・甲斐(山梨県)・武蔵の諸国であったという。これらの諸国は、御牧(みまき)がおかれた国々であり、御牧は馬を使った僦馬の党の活動や群党とよばれた集団が登場する母体であったといえる。こうした僦馬の党の動向にたいし、中央政府は昌泰(しょうたい)二年(八九九)には碓氷・足柄の関を設置して交通を規制した。また桓武平氏の祖とされる高望王(たかもちおう)は平の姓をうけ、上総介(かずさのすけ)として東国に下向した。その後その一族は東国の国司や鎮守府(ちんじゅふ)将軍として東国に下向し、東国の治安維持にあたり、やがて武門の棟梁(とうりょう)のひとつとして発展する。
承平(しょうへい)五年(九三五)の平国香(たいらのくにか)との一族争いに端を発する平将門(まさかど)の乱は、九世紀以来の東国の自立の動きがその頂点に達した事件である。承平七年になって将門は申し開きのために、かつて仕えた藤原忠平(ただひら)のもとへ上京し罪を許されたが、承平八年二月に平貞盛が東山道から上京しようとすると、讒言(ざんげん)を恐れた将門は信濃国分寺(上田市)付近で貞盛に追いつき合戦におよんだ。このとき、貞盛側の兵としてみえる他田(おさだ)真樹は、信濃の伝統的豪族他田舎人(とねり)氏の一族と考えられている。
天慶(てんぎょう)二年(九三九)十一月から将門は常陸(ひたち)(茨城県)・下野・上野などの坂東諸国の国府を襲い、足柄・碓氷以東に短期間ではあるが坂東政権を樹立した。将門謀叛(むほん)の第一報を都に伝えたのは信濃から派遣された飛駅使であった。信濃はこのとき、平将門が一時的に樹立した坂東政権の領域外で、東海道の駿河・甲斐とともに坂東の情報を都に伝える窓口となった。将門の乱の刻々の情勢は、信濃からの飛駅使が都へと伝えた。ここには、「軍事と造作」のさいにもあらわれた、東国に位置しながら、「坂東」とは区別されるという信濃の位置がはっきりとあらわれている。