信濃の初期荘園

468 ~ 469

天平(てんぴょう)十五年(七四三)の墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を契機に、墾田(開墾地)の私有が認められるようになり、これ以後平安時代前期(八~九世紀)にかけて貴族や寺社が所有した荘園(しょうえん)を初期荘園とよんでいる。初期荘園は、開墾予定地を囲って領域をもつ場合もあったが、領域内すべてを耕地化した例はなく、耕地片の集合体であった。またそこを耕作する専属の荘民はもたず、周辺の公民(班田農民)の耕作によって成りたっていたところに特徴があった。したがって荘園を耕作する公民が、古代の共同体の解体や、自然災害などによって没落する九世紀には、多くの初期荘園も没落・衰退するのである。

 信濃の初期荘園で名前と所在地が明らかな例は、藤原良房(よしふさ)が京都貞観寺(じょうがんじ)に施入(せにゅう)した「筑摩郡大野荘」、藤原良相(よしみ)が多武峰(とうのみね)寺(奈良県桜井市)に施入した「筑摩郡蘇我郷字草茂(くさも)荘」の二例にすぎない。大野荘は荘地二〇二町余におよぶ広大な荘園であったが、このうちじっさいに耕地として耕作されていた土地は一〇町余りで、ほとんどが荒野や荒地であった。なお、草茂荘については、その位置が、「草茂」と記された墨書土器によって明らかになったことは先にふれた。もっとも、信濃で初期荘園がこの二例しかなかったというのではなく、たとえば、松本平の発掘調査で、三ノ宮遺跡(松本市島立)から「庄」の墨書土器が見つかったり、先に述べた榎田遺跡で収穫物の出納をおこなったことを記録した木簡が出土したりしたことから推測すると、文献史料にはその名前が残らなかった荘園が存在した可能性は高い。

 大野荘・草茂荘などの初期荘園は、一〇世紀以降史料に姿をあらわさない。おそらくは、九世紀末の社会変動のなかで衰退していったものと思われる。これらの初期荘園についで知られる荘園は、摂関政治期の後院(ごいん)領蕗原(ふきはら)牧(上伊那郡箕輪町等)、後院領桐原牧(松本市)、勧学院領の信濃の荘(荘名不詳)、小野宮家領洗馬牧(せばのまき)(東筑摩郡朝日村等)などであるが、これらは中世にまで存続した形跡がなく、本格的な荘園は、一一世紀末から一二世紀初頭の寄進地系荘園の成立を待たなければならなかった。