九世紀末から一〇世紀になると、地方行政は受領(ずりょう)とよばれるようになった国司が請け負い、戸籍・計帳制度がくずれて、税制も人別に賦課(ふか)される租庸調(そようちょう)制から、土地の面積にたいして賦課される官物(かんもつ)・臨時雑役(ぞうえき)制にかわった。国衙(こくが)は九世紀に台頭した新興有力者が経営する耕地を「負名(ふみょう)」「負田(ふでん)」として把握し、かれらに納税義務を負わせた。納税率や納税品目は国ごとに異なり、政府に納める基本額は固定されるようになった。信濃の場合、どのように新興有力者を組織したのか史料がなく不明であるが、郷や村を単位に租税が徴収されていたと考えられている。また官物も、麻布を中心とする軽物が基本的税目であったらしい。とくに信濃産の麻布は平安時代以降「信濃布」とよばれるブランド品になり、宮廷でおこなわれるさまざまな儀式の引き出物などとして珍重された。
受領は政府から国内支配を請け負い、一定額の官物(租税)を政府に納めれば、それ以上国内支配に政府は介入しなくなった。受領はそのために一族・郎等(ろうとう)や有官散位(うかんさんに)とよばれた都の下級官人を引き連れて任国に下り、かれらを目代(もくだい)や国使に任命し国内行政にあたらせた。こうしたなかで、地元の郡司層や新興有力者は、受領のもとに組織されて国の行政をおこなうようになった。かれらははじめ「雑色人(ぞうしきにん)」とよばれたが、一一世紀ころには在庁官人として受領やその代官である目代のもとで国内の行政をおこなうようになった。松本市宮淵から蝶型磬(けい)とともに出土した鰐口(わにぐち)に彫られた銘文(めいぶん)には、長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)の年紀とともに「判官代高向朝臣(ほうがんだいたかむこのあそん)弘信」の名がみえる。判官代は在庁官人の職名のひとつで、平安時代の中ごろに信濃で在庁官人制が成立していたことを示すものと考えられている。
このように受領による国務の請負がおこなわれるようになると、受領が負名から徴税する分と政府に納める納税分の差額は受領の所得となり、私腹を肥やす受領もあらわれた。『今昔物語集』に信濃守藤原陳忠(のぶただ)が「受領は倒れるところに土をもつかめ」といったという受領の貪欲(どんよく)さを示す話が載っているのはよく知られている。こうして、受領は実入りのよい職(しき)として中級貴族の所望の対象となったが、かれらは受領の人事権をもつ公卿(くぎょう)や摂政関白(せっしょうかんぱく)らに献上物を送ったり、さまざまな造営事業を請け負ったりして受領の職を手にいれようとした。
平安時代になると藤原氏は、他の貴族をおさえて摂関政治をおこなうようになる。九世紀には関白藤原良房が金刺舎人氏と結びついて信濃国内に五つの定額寺(じょうがくじ)(伊那郡の寂光寺、筑摩郡の錦織(にしごり)寺、更級郡の安養寺、埴科郡の屋代寺、佐久郡の妙楽寺)を同時に認めたり、また藤原良房が大野荘を、藤原良相が草茂荘などの荘園をもつなど、信濃とは関係が深かった。とくに一〇世紀前半に摂政となった藤原忠平が「信濃公」とよばれたように、忠平のときから摂関家は信濃ととくに深い関係をもつようになる。藤原道長・頼通(よりみち)のころになると、源済政(なりまさ)・藤原佐光・藤原公則(きみのり)・源道成(みちなり)などの摂関家の家司(けいし)や摂関家と密接な関係にある人びとが信濃守を独占するようになった。
この摂関政治の時期には、こうした国司をつとめる摂関家の家司の働きかけで荘園が寄進されたが、信濃でも若槻荘(若槻付近)・蕗原荘(上伊那郡箕輪町付近)・英多荘(あがたのしょう)(松代町付近)・郡戸(ごうど)荘(下伊那郡高森町付近)・芋河(いもがわ)荘(三水村)・太田荘(豊野町等)などの所領が摂関家に寄進された。この時期の荘園は摂関家と関係をもつ受領が主導して成立する点に特徴がある。
ところで、朝廷の年中行事である駒牽(こまひき)は九世紀はじめから資料にみえるようになり、摂関政治の始まる九世紀の後半から一〇世紀に盛行する。信濃からは、八月十五日(のち十六日)に諸牧からあわせて六〇頭、二十三日には望月の牧(北佐久郡望月町等)から二〇頭が京に送られた。望月の牧は歌枕にも詠まれるほど有名であった。また一〇世紀後半には摂関家にたいして信濃から馬がしばしば献上されている。朝廷の年中行事を主催した摂関家にとって、馬と信濃布の特産地である信濃は重要な位置を占めていたのである。