一一世紀後半に白河院政(一〇八六~一一二九)が始まると、院(上皇)の蔵人(くろうど)や院の近臣など院との関係の深い人物が受領として信濃守に任命されるようになった。また、鳥羽・後白河院政(一一二九~七九)の時期には信濃国は摂関家や院の知行国(ちぎょうこく)となった。白河・鳥羽院政期に信濃守をつとめた藤原盛重は、院政期の受領の典型である。幼少期から白河上皇の側に仕え、元服後は院の北面の武士・院の近臣として登用され、石見(いわみ)(島根県)・相模(さがみ)(神奈川県)・信濃などの受領を歴任し、任国から集めた莫大な財産は上皇への献上物となった。
信濃において、院や摂関家などの中央の権門(けんもん)に荘園が寄進され、いわゆる寄進地系荘園が本格的に成立するのは一一世紀後半以降、とくに鳥羽・後白河院政期であった。国司は国内の公領を維持するために中小貴族や寺社のもつ荘園の整理をたびたびおこなったが、これに対抗して中小貴族や寺社は最高権力者の院や摂関家に再寄進し、その保護を求めた。たとえば、鳥羽・後白河院政下では、水内郡広瀬荘(芋井)、水内郡小曽禰(こぞね)荘、水内郡市村高田荘(芹田・古牧)、高井・水内郡東条(ひがしのじょう)荘(小布施町等)などのほか、安曇郡大穴(おおあな)荘(東筑摩郡明科町)、筑摩郡捧(ささげ)荘(松本市)、諏訪社(諏訪市等)、小県郡常田(ときだ)荘(上田市)、佐久郡大井荘(佐久市等)、安曇郡野原(やばら)荘(南安曇郡穂高町等)、更級郡麻績御厨(おみのみくりや)(東筑摩郡麻績村等)、筑摩郡洗馬(せば)荘(塩尻市等)、同郡桐原荘(松本市)、伊那郡伴野(ともの)荘(下伊那郡豊丘村等)、安曇郡住吉荘(南安曇郡三郷村等)、佐久郡伴野荘(佐久市等)、安曇郡千国(ちくに)荘(北安曇郡小谷村等)、小県郡塩田荘(上田市)、同郡依田荘(小県郡丸子町等)などが院領荘園になっている。信濃にはこうした皇室領荘園のほかに摂関家領荘園も数多く分布するが、皇室領荘園三二ヵ所のうち一九ヵ所がこの時期に成立した荘園であったように、鳥羽・後白河院政期が信濃における寄進地系荘園の成立期であったといえる。
こうした寄進地系荘園の成立の背景には、一一世紀の地域における再開発の動きがあった。九~一〇世紀には古代の集落が解体し、一一世紀後半から一二世紀にかけて新たな集落が形成されていった。平野部に集中した集落は九世紀末に急速に解体し、山間部やこれまで開発の手のおよばなかった地域にもおよぶようになる。一一世紀後半以降になると塩尻市吉田川西遺跡にみられるような溝などで区画される「館(やかた)」が登場し、そこを根拠地として周辺の土地や村を開発予定地として国司や中央政府から認めさせたり、一定の官物(年貢)の納入を条件に所領として認めさせたりする有力者が登場する。かれらは、こうした権利を代々郷司職(ごうししき)・村司職として世襲し、その開発地の地名を名字する開発領主として成長していった。
こうした開発領主として文献に登場する人物として名前のわかるものには、伊那郡非持(ひじ)郷(上伊那郡長谷村)の検校(けんぎょう)豊平、安曇郡矢原(やばら)郷の藤原家信、高井郡芳実(はみ)(美)御厨(須坂市付近)の源家輔(いえすけ)などが知られている。芳実御厨は、源家輔がみずからが開発した所領を負物(ふもつ)(借財)の代償として伊勢神宮禰宜(ねぎ)常秀に譲与して成立したものである。また、矢原御厨は藤原家信が先祖相伝の地を伊勢神宮(外宮)に寄進して成立した伊勢神宮の御厨で、いずれも信濃においてはじめて成立した寄進地系荘園である。ただ、芳実御厨は国司の荘園整理の動きのなかで公領にもどっている。これは、荘園(御厨)のなかには、国司の権限でその国司の任期中に限って認められた荘園(国免荘(こくめんのしょう))と、中央政府が認めた荘園(官省符荘)があったためで、一一世紀後半に始まる荘園整理の動きのなかで荘園としての由緒が審査され、その存否が決まったからである。
信濃の中世史料で確認できる荘園は五九ヵ所、牧三〇ヵ所であるが、公領(こうりょう)も一一三ヵ所を数える。寄進地系荘園の成立によってすべての土地が荘園になったというわけではなく、公領の占める割合も荘園に匹敵するものであった。こうして中世の土地制度は、荘園と公領の両者が併存したので、これを荘園公領制とよんでいる。その分布は、公領は国府の存在した府中(松本市周辺)に三〇ヵ所、信濃国司の目代(もくだい)が駐在した後庁(ごちょう)のあった北信濃(奥郡)に三五ヵ所、伊那郡に二六ヵ所と、北信・中信・南信の三つのブロックに集中する地域が分かれている点に特徴がある。荘園の分布も、千曲川と天竜川という大河の流域に集中し、荘園の立地と河川交通が密接にかかわっていたことを示している。また、伊勢神宮の荘園である御厨には、保科(長田)、富部、布施(藤長)、麻績、仁科(大町市)、会田(あいだ)(東筑摩郡四賀村)などの御厨があるが、その分布を見ると千曲川からその支流の犀川流域にひろがっていることがわかる。信濃の荘園・御厨は、千曲川・犀川・天竜川という河川とも密接な関係をもって成立したのである。