律令(りつりょう)体制を末端で支えた、古代以来の伝統的な地方豪族である郡司(ぐんじ)層は、一〇世紀を境に没落に向かい、平安後期までに新たな在地領主層が成長してきた。一二世紀末までに存在が確認できる、長野市周辺における有力な領主として、清和(せいわ)源氏では更級郡村上御厨(みくりゃ)(坂城町)を拠点に、水内郡の栗田郷(芹田(せりた)栗田)や千田(せんだ)荘(同千田)などにも進出してきた村上氏、そして、高井郡井上郷(須坂市)を中心に周囲の高梨(たかなし)(同)・須田(すだ)(同)・村山(長野市村山・須坂市村山)などの諸郷に蟠踞(ばんきょ)していった井上氏などがいた。いっぽう、桓武(かんむ)平氏では、公領の水内郡長池郷(古牧南長池・朝陽北長池)や、同郡内の和田郷(古牧東・西和田)、高井郡内の狩田(かりた)郷(小布施町)などを中心に、両郡にまたがる散在型大荘園である東条(ひがしじょう)荘の領主化をすすめた和田氏などがその代表である。
こうした領主層は新しい社会的身分である武士層でもあった。かれらが地方に基盤をもつようになった理由や背景にはさまざまなタイプがあったが、一般的には下級国司として任地に下向したり、一族のものが国司に補任(ぶにん)され従者として地方にくだり、任期が切れてもそのまま現地に土着して、国衙(こくが)とのかかわりを保ちつつ周辺の開発をすすめて公領の領主となった場合や、あるいは私領の開発をおしすすめながら、これを荘園として中央の寺社や有力貴族に寄進して、みずからは現地でその実質的な管理・経営にあたる下司(げし)などの荘官(しょうかん)となる場合が多かった。しかし、このなかで、村上氏の場合は流罪となったことで、信濃で在地領主化をとげる一つの契機となったとみられる例で、やや変わったケースといえる。
中御門宗忠(なかみかどむねただ)の日記『中右記(ちゅうゆうき)』によると、寛治(かんじ)八年(一〇九四)八月十七日、三河守(みかわのかみ)の任にあり一院(白河院)への昇殿も許されていた源惟清(これきよ)が、白河上皇を呪詛(じゅそ)したかどで遠流(おんる)に処され、伊豆国(静岡県)へ流されるという事件が起こった。これに連座して、父の前筑前守仲宗(頼清の子、頼信の孫)と弟の盛清は中流(ちゅうる)で周防(すおう)国(山口県)と信濃国へ、別の二人の弟の顕清と仲清は近流(こんる)で、それぞれ越前(えちぜん)(福井県)・阿波(あわ)(徳島県)に配流(はいる)された。この信濃に流された盛清の子、為国が一般に村上氏の祖とされている人物である。
以上の経緯は『百錬抄(ひゃくれんしょう)』の記事からも知られるが、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』になると刃傷沙汰(にんじょうざた)が原因とされたり、系譜関係にいくつもの異説が記されるなど、かなりの混乱がみられる。前者の点は二年後の承徳(しょうとく)二年(一〇九八)、武蔵守藤原行実が流人源仲宗の郎従(ろうじゅう)に刃傷される(『本朝世紀』)という事件が起こっているから、この事実が混同されたものだろう。系譜については、『中右記』では惟清か盛清を養うとありながら、『尊卑分脈』では盛清を仲清の養子とし、為国を盛清と顕清の双方の子に配している。同書が編さんされた南北朝期には、正確な系譜をたどることが困難になっていたらしいが、為国を信濃の村上氏の祖とする点は認めてよいだろう。
ところで、当時の流人(るにん)は、伊豆国蛭ケ小島(ひるがこじま)での源頼朝や越後国での親鸞(しんらん)などの事例からして、流罪地での行動は比較的自由であったとみられはするが、為国が流人の身でただちに荘園・公領の領主になりえたはずはないし、そもそもこの時点でまったく土着化したとは思われない。『尊卑分脈』では為国のところに崇徳院(すとくいん)の判官代(ほうがんだい)を勤め「村上判官代」と号したと記し、その他一族中にも院や女院の判官代・蔵人(くろうど)を勤めたものが多くみられるので、ふだんは在京していたことが推定される。また、最終的に在地領主化か可能であったのも、やはり院や女院に仕えることによって得た中央とのパイプを生かし、そうした権威をうしろ盾(だて)にすることによったと考えられる。
ちなみに、為国は後白河院の近臣として権力を振るうようになる藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))の娘を妻の一人にしており、また、通憲の一子是憲(これのり)は信濃守を勤めたことがあった。崇徳院に仕えた為国とは後年、敵味方にわかれるが、以上のような関係もある時期には地方で足場を固めるのに有利に働いたとみることができる。こうして院に出仕したことは、非常時にさいして従軍する義務を負うものであり、後年起こった保元(ほうげん)の乱には、村上氏は召しに応じて崇徳上皇の白河殿に駆けつけたのであった。
村上氏は、更級郡村上御厨から現在の長野市内の中心部を占める水内郡の千田郷や栗田郷の開発をすすめたらしく、一族から千田氏や栗田氏が出ている。とくに栗田氏は戸隠にも進出して、井上氏とともに代々の顕光寺別当(けんこうじべっとう)を輩出するまでになっている。さらに、更級郡出浦郷(坂城町)や埴科郡屋代郷(更埴市)、筑摩郡波多(はた)郷(東筑摩郡波田町)にも進出しているが、とくに栗田氏や屋代氏などは近世初頭まで信濃での領主としての存在が知られる。