笠原牧、東条荘などと平氏

484 ~ 487

平氏を出自とするもので、この時期に信濃国で領主として成長した武士は、源氏に比べて少なかった。南信では、伊那郡大田切(おおたぎり)郷(上伊那郡宮田村等)の菅(すげの)冠者、中信では安曇郡仁科(にしな)(大町市)の仁科氏が、一説に平氏であったといわれているくらいである。北信では、高井郡笠原牧(中野市)の領主、笠原氏が平氏であった。笠原氏は左馬寮(さまりょう)領の笠原牧の管理者から在地領主として成長した一族で、治承(じしょう)五年(一一八一)四月に勘解由(かげゆ)判官に任官した笠原頼直は除目(じもく)では、「平頼直」と記されている(『吉記』)。後述するように、横田河原合戦で越後の城(じょう)氏方について木曾義仲方と戦ったときにも、「平五」を名乗りとしているから、平氏であることは疑いなかろうが、『尊卑分脈』等の系図類には所見がないため、その系譜は不明で、桓武平氏かどうかもはっきりしない。ちなみに、『神氏系図』では保科氏の末流に記され、のちには神(しん(みわ))氏と称している。

 信濃では数少ない桓武平氏で、しかもかなり有力な武士の一族が、現長野市域に所領をもっていた。それが、本領とみられる東条荘の水内郡和田郷と高井郡狩田郷のほか、のちには公領である水内郡長池郷の一方、小県郡依田荘(丸子町等)の一部なども所領としていた和田氏一族である。

 東条荘は鳥羽上皇が建立した安楽寿院領として立荘され、その後皇女の八条院(暲子内親王)に伝領され、のちのちまで皇室領の所領群を構成した重要な荘園のひとつであった。その領域は水内・高井両郡にまたがり、当初は十数ヵ郷からなっていた大荘園である。平安末期における東条荘の領主で、史料的にその実名が知られるのは、狩田郷の領主職をもっていた平繁雅(しげまさ)である。繁雅は河内守なども歴任していたが、『吾妻鏡』によれば当時、式部省の次官である式部大輔(たいふ)の任にあった。式部省は朝廷の内外官の人事一般をつかさどる役所で、長官(卿(きょう))には親王を充てるのが慣例であったから、大輔(正五位下相当官)は実質的な長官といってよい。したがって、かれはいわゆる在地領主ではなかった。そもそも「領主職(しき)」というのも、当時の荘園制下の支配関係(いわゆる職の体系)からいうと、「預所職(あずかりどころしき)」と「下司職(げししき)」を兼ねたものらしく、実質的には在京領主の所職であった。

繁雅とその一族からは勅撰集に多くの歌が採録され、藤原定家とも姻戚関係のある歌道の家柄であった点なども、都に本拠をおいていたことを示唆している。そのため、信濃にもつ所領を円滑に支配するために、その一族のものを現地に土着させたらしい。

 前にも引用した「六条八幡宮造営注文」の記載によって、鎌倉初期の信濃に国御家人として把握されていた和田肥前入道なる武士がいたことがわかる。おそらく、この人物が平安末期から現地に定着していた同族の一人であろう。『尊卑分脈』にはこれにあたる人物はないが、越後の三浦和田中条家文書に伝わった「桓武平氏諸流系図」によれば、繁雅の従兄弟に繁継なるものがおり、殷富門院(いんぷもんいん)(亮子内親王)の蔵人(くろうど)、宣陽門院(覲子内親王)の院長、左兵衛尉(さひょうえのじょう)、正五位下肥前守などを歴任したのち、出家して信濃に住んだと注記されている。その時期は平安末期ころのことだから、「肥前入道」に該当する人物であることは疑いない。名字を「和田」と称したのは、水内郡の和田郷を本拠として、ここに館を構えたためであったが、この館の場所は、のちには高岡郷に属していた。鎌倉時代に善光寺奉行人の一人を勤めた和田石見(いわみ)入道仏阿は、その後裔(こうえい)とみられる。

 無視できないのは、中央に本拠をおいた繁雅や信濃に土着した繁継らの一族は、維茂(これしげ)系の桓武平氏の流れをくんでおり、平氏政権下の越後国を支配し、横田河原で木曾義仲と戦った城氏と比較的近い血縁関係にあったという事実である。じっさい、城資職(すけもと)は養和元年(一一八一)に靫負尉(ゆげいのじょう)に補任(ぶにん)されたときに「維茂等之党」とよばれていた(『玉葉』)。また、越後国では繁雅の叔父の維繁が、やはり菅名(すがな)荘(新潟県五泉市等)の預所職を有しており、維茂系の平氏が信濃に進出したのも越後経由ではなかったかという見方もあるほどである。こうした関係が、源平内乱期の情勢とその戦後処理に微妙な影響をあたえることになったことは、元暦(げんりゃく)元年(一一八四)狩田郷の領主職が没収されそうになったため、繁雅が頼朝に訴えて返還してもらっていた事実からうかがえよう(『吾妻鏡』)。


図2 維茂系桓武平氏略系図