平安時代の後半には、武門の棟梁(とうりょう)として朝廷や院・女院などに仕えるいっぽうで、僧兵の蜂起(ほうき)や各地の武力紛争を鎮圧する任務をあたえられていた平氏や源氏がいた。北信濃とかかわりのあるものでは、桓武平氏の平維綱(これつな)が知られる。天養(てんよう)二年(一一四五)、鳥羽上皇の御願寺最勝寺領の水内郡小河(おがわ)荘(小川村等)で、下司の清原家兼が在地武士と思われる池田宗里と対立して殺害されるという事件が起こった。このすきを突いて家兼からゆずられた公験(くげん)があると称して荘務を執行しようとしたのが平維綱であった。預所の任にあった僧増証はかれの濫妨(らんぼう)を停止(ちょうじ)させるべく鳥羽院庁へ訴えでて、下司職の補任権を認められ、一件落着している。
平維綱は、『尊卑分脈』によれば、伊勢平氏の祖正衡(まさひら)の兄貞衡の孫にあたり、「鷲尾右衛門尉」と号した人物であった。この一族には「安濃津(あのつ)」や「桑名」を名乗るものがいるが、これらはいずれも伊勢の所領名であり、「鷲尾」も伊勢に近い尾張国富田荘鷲尾郷(愛知県平和町)に由来する名字らしい。この貞衡の系統はほんらいは伊勢平氏の主流であったが、正衡流の正盛が院の近臣化したことにより、後者がしだいに同族中で優位を占め、前者の系統は後者に従属化していったことが指摘されている(高橋昌明『伊勢平氏』)。維綱もこの当時、系譜では従兄弟にあたる平忠盛の従者となっていたが、そのことは久安(きゅうあん)五年(一一四九)三月十五日、忠盛の子で清盛の異母弟家盛が急死したとき、かれの乳母夫の「右衛門尉平維綱」が悲しみのあまり、剃髪したとある(『本朝世紀』)ことから知られよう。ちなみに、維綱が右衛門尉に任官したのは保延元年(一一三五)のことで、平忠盛にしたがって西国の海賊を討伐したことによる賞であった(『長秋記』)。このように維綱は正盛以来、伊勢平氏の主流が院近臣として地歩を確立しつつあったとき、その勢威を背景とし、また鳥羽院との関係を利用して、実質的な院領荘園であった小河荘の下司職を奪いとろうとしたと考えられる。
維綱と信濃との関係はこれ以後、史料に見えないが、ほぼ同じころに信濃、とくに北信地方に大きな権益をもち在地領主化の道を志向しつつ、中央の政局にも影響をあたえていたほどの人物がいた。平正弘である。かれは維綱の父と又従兄弟(またいとこ)の関係にあたり、また伊勢平氏興隆の基礎を築いた平正盛とも又従兄弟の間柄であった。平正弘が信濃国内で最終的にもっていた所領には、水内郡の高田郷(古牧高田)・市村郷(芹田南市・北市)、更級郡の麻績御厨(おみのみくりや)(東筑摩郡麻績村)、安曇郡の野原(やばら)郷(南安曇郡穂高町)の四ヵ所があった(『兵範記』)。このほか年次は不明だが、『戸隠山顕光寺流記』によれば同寺に木那佐山(きなさやま)(鬼無里村)を灯油料として施入(せにゅう)したとあるので、北信にはほかにも所領があった可能性があろう。たとえば、更級郡の布施御厨(篠ノ井布施高田等)や富部(とんべ)御厨(川中島町御厨)がそうである。後述するが、養和(ようわ)元年(一一八一)の横田河原合戦で木曾義仲と戦い憤死した富部家俊は、長門本『平家物語』などでは正弘の嫡子家弘の子であると名乗りをあげている。また、『源平盛衰記(じょうすいき)』では正弘の子が布施三郎惟俊、その子が富部三郎家俊であったとしている。正弘のこどもたちは乱後にすべて処刑されたとみられるから、これらの話は真実性にとぼしいが、かつて布施惟俊や富部家俊が正弘と主従関係にあったことや、布施御厨や富部御厨も一時正弘の所領化していたことを示唆する逸話かとも思われる。なお、信濃以外の所領は、伊勢国に四ヵ所、越後国に一ヵ所があった。
かつての御厨の支配権を有していたことは、それらを公領化する荘園整理に関与していた可能性があり、それを実施できた国司とのつながりが推定される。たとえば、一二世紀前半に院武者所(むしゃどころ)出身で信濃守になった藤原盛重などは荘園整理を断行したことで知られる。この推定を裏づけるかのように、『今昔(こんじゃく)物語』には、正弘の叔父(父貞弘の兄)の正家が信濃国内に所領があったために、常日ごろ京と信濃とを往来し、また現地の農民らを雑色人(ぞうしきにん)として召し使っていた話がみえる。『尊卑分脈』によると、正家は信濃守に任じられていたことが知られるが、その時期は一一世紀末のことらしい。信濃国内に所領を得たとすればその在任中のことであろう。当時、任国へじっさいに赴任した国司は、一族のうちで無位無官のものや郎等らを多数従者に引きつれて、下向することが多かった。『今昔物語』のこの話のなかでも、正家の子資盛(正弘の従兄弟)は信濃で生まれ育ち、ここを本拠としていたとある。正弘の父貞弘は信濃の国司になった形跡がないから、正弘が信濃とつながりをもったのは、やはり、このときに叔父の正家にしたがって来たのが契機ではないかとみられる。
中流以下の貴族は一般にこうした経緯でしだいに地方に土着し、周辺の武士や所領内の農民を郎等や雑色人に編成して、主従関係を拡大しつつ武士団を形成していったが、そのいっぽうで、朝廷や院・女院などの「侍」や蔵人・判官代などとして仕え、つねに官職や位階にもありつこうとしていた。平正弘も白河院のあと、鳥羽上皇の院の北面の武士、ついで判官代として仕えていたが、公領の私領化は、このように地方において領主権を扶植しつつ、中央の政権にも軍事力をもって仕える過程で獲得したものであったにちがいない。