保元(ほうげん)元年(一一五六)七月十日、鳥羽上皇が亡くなったのを機に、崇徳(すとく)上皇は突如、兵を白河殿に集めた。保元の乱の勃発である。この乱は、父(じつは甥(おい))の鳥羽上皇から冷遇されていた崇徳上皇の、それまでの皇位継承のありかたなどをめぐる不満が主因となり、これに摂関家内部の藤原忠通・頼長兄弟の対立が結びついて起こった。崇徳上皇方の頼長は源為義や平忠正と結び、後白河天皇(崇徳の弟にあたる)方の忠通は源義朝や平清盛と結んで激突した。乱の経過は翌日、義朝・清盛らに白河殿を襲われた上皇方がはやくも総崩れとなり、天皇方が勝利を収めて終結した。この結果、上皇は讃岐(さぬき)(香川県)に流罪となり、頼長も戦傷がもとで死去した。
保元の乱は、旧来の貴族の無力化を露呈させたいっぽうで、武士の実力を世に示したものと評価されるが、主力となった源氏や平氏の武士団も、親子・兄弟が別れて争ったことで、源為義や平忠正らが斬首されるなど、一時的だが一族間の亀裂を招いている。しかし、地方武士にとっては中央での栄達や所領拡張の好機であったから、中央の源氏や平氏の動員に応じて参加する武士がとくに東国には少なくなかった。その数は天皇方千七百余騎、上皇方千余騎とあり、さらに前者の内訳では義朝軍が二百余騎、清盛軍が三百余騎とみえる(『兵範記(へいはんき)』)。
信濃武士でこの戦いに参加したものは全国的にみて多く、それも大部分は天皇方の義朝軍に従軍し、義朝が白河殿を襲ったときにも多くがこれにしたがった。『保元物語』の「官軍勢汰(ぞろ)え」の段によると、諸本によって多少異なるものの、信濃出身の武士は十数名(騎)を数え、これは武蔵国(東京都・埼玉県)の約三〇名(騎)につぐ多さであった。海野(うんの)、望月(もちづき)、諏訪、蒔田(まいた)(舞田)近藤武者、桑原安藤次・安藤三、木曾中太・弥中太、根井(ねのい)大弥太、根津神平、静妻(しずま)太郎・小二郎、片桐小八郎大夫、熊坂四郎らである。このほか、平賀義信も義朝に従軍していたことが確実である(『吾妻鏡』)。伊那・諏訪・安曇・小県・佐久とほぼ信濃各郡におよんでいるが、なかでも佐久・小県の武士が主力になったようである。北信ではわずかに、水内郡静妻郷(飯山市静間。室町期には若槻新荘にふくまれている)の静妻太郎・小二郎と、同郡熊坂(信濃町熊坂)の領主とみられる熊坂四郎くらいである。信濃武士に義朝の配下に属するものが多かった点を指摘できるが、これに関しては前年の久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五)十月に、義朝の叔父頼賢(よりかた)が義賢(木曾義仲の父で、義朝の子義平に殺害された)の報復を名目に信濃の院領荘園を侵略したのを、義朝が信濃に下向して追討した事実があり(『台記』)、このことが信濃武士を糾合(きゅうごう)する機縁となったのかもしれない。
これにたいして、信濃に本拠のある武士で唯一上皇方に味方したのは、北信に勢力を張る村上氏であった。平信範の日記『兵範記』によれば、七月十日に上皇が白河殿に兵を集めたとき、「源為国」がそのなかにいたとある。もっとも、『保元物語』諸本には為国の名はみえず、かわりに「村上判官代基国」が平忠正、源為義、あるいは後述する平正弘らとともに参陣したことが述べられている。村上為国の子が基国だから、『兵範記』『保元物語』いずれかの誤記か、あるいは親子ともども出陣したのかははっきりしないが、村上氏が上皇方の主要な構成メンバーであったことはまちがいない。為国は『尊卑分脈』などに、崇徳院の判官代を勤めたために「村上判官代」と号したとあるように、崇徳上皇の近臣であり、それが上皇方についた要因であった。もっとも、その子の基国が「村上判官代」とよばれたのは、鳥羽上皇に先立って亡くなった、高陽院(かやのいん)(藤原忠実の娘泰子)の判官代を勤めていたことによるらしい。高陽院は鳥羽上皇の皇后の一人だが、弟の藤原頼長の支えとなっていた女性とされ、鳥羽上皇が晩年に寵愛(ちょうあい)していたもう一人の皇后で、後白河天皇方の中心人物であった美福門(びふくもん)院(藤原得子)とは、対立する関係にあった。平忠正も藤原頼長に臣従しつつ、この高陽院にも仕えていたから、村上基国とは顔なじみであったはずである。
このほかに上皇方についたのは、水内郡高田郷・市村郷などの領主職を有していた平正弘とその一族であった。『保元物語』には、正弘につづいて家弘・頼弘・康弘・時弘・安弘・光弘・盛弘ら七人の名前が列挙されている。かれらはいずれも正弘の子もしくは孫であったらしい。正弘は前述のようにかつて鳥羽上皇に仕えていたことが知られ、この一族が崇徳上皇方についた直接の理由は不明であるが、上皇方についたものの多くは、それ以前から崇徳院や藤原忠実・頼長父子と人的関係があったか、もしくは後白河天皇のもとで不遇であった人びとであったことは確かなようである。平忠正は鳥羽上皇に勘当されて以来、散位(さんみ)のままにおかれていたが、正弘の嫡男家弘も同じく当時「散位」であり(『兵範記』)、やはり後白河天皇のもとで任官できなかったらしい。ちなみに、白河殿に参集した面々のなかには信濃守藤原行通もいた(『保元物語』)。正弘が信濃国内に公領に由来する多くの所領を有していた事実に照らすと、両者のあいたに権益をめぐってなにかしらの結びつきがあったことも考えられて興味深い。
平正弘の子弟らは敗北後の七月三十日、ほかの多数の一族郎党とみられる人びととともに、丹後(たんご)国(京都府)の大江山で斬首(ざんしゅ)され、また正弘自身は八月三日、陸奥(むつ)国に配流されている。これによって、正弘の所領はすべて没収されて、後院領となったことは前に述べた。
保元の乱から三年後の平治(へいじ)元年(一一五九)十二月、平清盛とその一族が熊野詣でに出かけた留守を見はからい、義朝は後白河上皇(後白河天皇は保元三年にすでに二条天皇に譲位し、院政を開始していた)の近臣藤原信頼とともに、上皇の御所三条殿を襲撃した。平治の乱である。保元の乱で後白河天皇側を勝利にみちびくのに抜群の戦功のあった平清盛と源義朝は、乱後まもなく武士階級の主導権をめぐって反目するようになったが、清盛が後白河上皇の寵臣藤原通憲(みちのり)(信西(しんぜい))と結んで権勢を誇ったのにたいして、義朝は劣勢におかれたことが対立を決定的なものとした。そこで、義朝は通憲の対立者であった藤原信頼と組んで、清盛打倒のクーデターを起こしたのである。しかし、後白河上皇の幽閉(ゆうへい)、通憲殺害には成功したものの、急ぎ帰京した清盛に敗れ、信頼は斬罪、義朝も東国に落ちのびる途中、尾張国で殺された。源氏の勢力が一時衰退し、その後の平家の全盛をもたらすことになった事件であった。
この事件と信濃武士の関係は、保元の乱に比べると、参戦したものは少なかった。戦闘が奇襲に近い突発的なものであったことや、保元の乱後あまり年月をへていなかったことなどが影響していよう。信濃には先の戦いで義朝に属した、いわば源氏恩顧の武士が多くいたはずだが、当時、平清盛とその一族が権勢を誇っていたため、去就に迷った武士が多かったことなども、反応が鈍かった原因として考えられる。『平治物語』諸本によると、信濃に本拠をおいていた武士で、義朝方に従軍したとあるのは、わずかに片桐小八郎大夫景重、木曾中太・弥中太、常盤井(ときわい)、榑(くれ)、弘戸次郎のみであった。このうち源義平にしたがって奮戦したことで知られる伊那郡の片桐景重と、木曽の在地武士らしい木曾中太・弥中太は、保元の乱につづく参戦であった。あとの常盤井・榑・弘戸次郎については、その本拠地さえはっきりしないが、一説では常盤井は水内郡常岩牧(ときわのまき)(飯山市常磐)の領主ではないかとされ、また、常岩牧に隣接して神(ごう)(顔)戸(ど)郷(飯山市顔戸)かおり、「弘戸」はこれにちなむ名字とする見方もある。『平治物語』の表記の仕方からすると、「常盤井榑弘戸次郎」は一人の人物をさしている可能性もあるが、以上の見解にしたがえば、北信からも参戦した武士がいたことは確かであろう。
なお、このほかに、当時はまだ土着していた可能性は少ないものの、現在の長野市と関係深い武士が義朝方に従軍していた。のちに水内郡若槻荘に本拠をおく若槻氏の祖、源義隆である。かれは義朝が落ちのびる途中、平治元年十二月の近江(おうみ)国(滋賀県)天台山龍華越(りゅうげごえ)の戦いで、義朝の身代わりとなって討ち死にしたのであった。義隆の遺児で、幕府成立後に若槻荘の地頭となる頼隆は、このときわずかに生後五〇日であったため、縁座(えんざ)をまぬがれて千葉常胤(つねたね)に預けられている。ちなみに、後年、源頼朝が平家を滅ぼして権力を手中に収めた文治元年(一一八五)九月、義朝の遺骨を改葬したさいには、若槻頼隆は父の忠節によって、平賀義信とともに御輿(みこし)をかつぎ、また大内惟義らと内陣に祗候(しこう)する栄誉に浴している(『吾妻鏡』)。