このようにして東信を中心に軍勢をととのえた義仲軍は、信濃国内の戦いのなかで最大の山場で、『平家物語』諸本でも大きな比重を占める合戦に臨むことになる。翌治承五年(一一八一)六月、千曲川の横田河原(篠ノ井横田付近)を戦場にして、越後の城氏を打ち破った合戦である。
城氏は桓武平氏の流れをくみ、陸奥の鎮守府将軍として武勇を振るった平維茂(これもち)の子孫で、その子繁成(しげなり)が前九年の役にさいして出羽城介(でわじょうすけ)に補任されて以後、子孫は「城」を名字とし、しだいに南下して越後国の奥山荘など諸荘の開発領主として成長してきた武士団である。平氏政権下で清盛に属した城太郎資永(すけなが)(助永・助長などとも。のち資成と改名したとする説もある)は前年の十一月、義仲挙兵や甲斐源氏らの侵攻にたいして、信濃国を平定する約束をしていたが、この年二月、信濃への進攻を目前に頓死(とんし)した。そのため弟の四郎資職(すけもと)(助職とも。のち「ながもち」と改名し長茂、永用・永茂などと記される)が急遽(きゅうきょ)、この越後平氏の棟梁となって体勢を立てなおし、五月に信濃に向けて進撃を開始し、六月に入って横田河原に陣を取ったのであった。これを迎えうつ義仲軍は小県郡海野(うんの)荘(東部町)の白鳥河原に集結し、陣容をととのえたうえで横田河原に向けて兵をすすめ、決戦のときを迎えた。
ところで、この横田河原の合戦がじっさいにおこなわれたのが治承五年六月である点についてはほぼまちがいないが、具体的な日時となると文献によってまちまちである。通説では、九条兼実(かねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』の治承五年七月一日条に伝聞として書き留められた、六月十三、四両日が正しいとしているが、読み本系の『平家物語』諸本や『源平盛衰記』などでは、六月二十五日のことであったように書かれている。だが、吉田経房(つねふさ)の日記『吉記(きっき)』では六月二十七日条に城助職敗走の風評を記しており、信濃からの情報が二日で京都に届いたとは考えがたいから、やはり『玉葉』の記事のとおり、六月半ばころとみるのが妥当だろう。ちなみに、はなはだしい例は寿永(じゅえい)元年(一一八二)十月九日のこととする『吾妻鏡』だが、これなどは明らかに錯誤(さくご)がある。
以下、この横田河原の合戦の実態にふれておくが、その場合、地方からの伝聞とはいえ、もっとも信頼度が高いのはやはり『玉葉』の記事である。九条兼実はこの情報の入手経路として、兼実のもとを訪れた藤原兼光から直接聞いたと記しているが、その兼光はこれを、後白河院の御所で越後の知行国主の藤原光隆から聞いたことだから、確かな話であると述べている。つまり、越後国府の在庁官人からもたらされた情報とみられるものだが、これにはつぎのようにある。
国人(くにびと)から「白河御館(みたて)」とよばれた越後国の勇士、城四郎資職は信濃に入国当初は優勢で、あえて応戦しようとするものはおらず、降伏を請(こ)うものばかりであった。わずかに城に立てこもるものでも簡単に攻め落とせるほどで、皆々が勝利は目前と思っていた矢先、信濃源氏が「キソ党」「サコ党」「甲斐国武田党」の三手に分かれて攻め襲ってきた。そのため、これまでの軍旅の疲れもあった城氏側は、一矢(いっし)も射る間もなく、散々に敗れ乱れた。大将軍の資職はからだに二、三ヵ所の傷を負い、甲冑(かっちゅう)を脱ぎ弓矢も捨て、もとの勢は万余騎もあったのに、わずかに三百余騎ばかりを率いて本国に逃げ帰った。残りの九千余騎は谷から落ちて命を失ったり、山林に逃げこんで行方(ゆきがた)知らずとなり、ふたたび戦おうとする気力は失われたということである。
これによれば、はじめ劣勢におかれていた義仲軍が勝利を得ることができたのは、軍勢をキソ党・サコ党・武田党の三手に分けた奇襲戦法が功を奏したためであったようである。ところで、これらの党のなかみや性格が問題となるが、これまでさまざまな説が出されている。キソ党は木曾党で、木曾中太・弥中太や樋口兼光、今井兼平らの木曾出身の武士と、伊那・諏訪両郡の南信地方の武士の連合軍とする点ではほぼ一致するものの、サコ党は佐久党で根井氏や海野氏を中心とした滋野氏系の東信の武士団とする説(『県史通史』②)と、「タコ党」の誤記で多胡荘を中心とする西上州の武士団とする異説(畠山次郎『木曾義仲』)があり、甲斐武田党にいたっては、『平家物語』諸本に武田氏の参戦記事がまったく見えないことから「上州党」の誤りとするものから、佐久郡の平賀義信とするものまで諸説紛々(ふんぷん)としている。
この点については、『玉葉』の記事を虚心に見ると、信濃国の「源氏」に率いられた軍勢の集団を「党」と称していると解釈できるので、キソ党は木曾義仲とその主従関係にあった信濃・上野両国の武士団、サコ党は佐久郡の平賀義信、およびその同族で筑摩郡の国府(松本市)周辺に基盤があった岡田親義とその子弟たち、武田党は甲斐源氏で武田信義の叔父にあたる安田義定に率いられた一団に比定するのも一案である。確かに『平家物語』諸本には安田義定や平賀義信がこの戦いに参加したことをうかがわせる記事はまったくないものの、後述のように平賀氏は鎌倉幕府成立以前に義仲から所領をあたえられていた形跡がある点から、義仲に従軍した可能性は十分に考えられる。安田義定についても、頼朝に属しつつも独自の動きをしたことで知られる人物で、義仲入京後には義仲の差配のもとで京中警備を担当していた事実がある(『古記』)点などから、信濃に兵を向けたとしても矛盾はない。こうした見方が成りたつとすれば、義仲方とみられる軍勢が、かならずしもすべて義仲の指揮命令下にあったわけではないことにもなり、横田河原の合戦の実態は従来の理解とはかなり違ったものになる可能性もでてこよう。
いずれにしても、文学作品である『平家物語』諸本は、当然のことながら作者の誤記や誤解、あるいは臨場感をもたせるための誇張やフィクションなどに加えて、全体的な筋立ての必要上、場面や登場人物は一部のみを取りあげているだけで、事実をすべて網羅しているわけではないことに注意する必要があろう。この横田河原合戦のところでも、笠原頼直にしたがった富部(とんべ)家俊と義仲方の西広助との組み討ちによる死闘と家俊の討ち死に、家俊の郎党の杵渕(きねぶち)重光による復讐とその壮絶な戦死、さらに、井上光盛の建言(けんごん)による赤旗の偽計(ぎけい)などが、ストーリーを盛りあげるための見せ場として設定されており、従来はこうした場面だけが取りたてられていたきらいがある。むろん、これらの逸話も事実をふまえて書かれたと思われ、まったくの虚構とするわけにはいかないが、それのみがこの戦いのすべてであったかのようにみなすことも、またできないのである。