古代末期の善光寺

505 ~ 507

七世紀後半に成立したとみられる善光寺が中央の文献に登場するのは、『僧妙達蘇生(みょうたつそせい)注記』という仏教説話集(冥途(めいど)蘇生記)が最初である。これは天暦(てんりゃく)五年(九五一)に出羽国田川郡(山形県)龍華寺(りゅうげじ)の僧妙達がはからずも入定(にゅうじょう)して閻魔(えんま)王宮を訪れ、今は亡き知人たちの死後のことを見聞し、ふたたびこの世に送り返されて、それを語るという一種の蘇生譚(たん)である。現存する写本の奥書には天治(てんじ)二年(一一二五)とあるが、それ以前のいくつかの文献にも引用されていて、天暦五年からほど遠くない時期に成立したとみられる文献で、平安中期(一〇世紀)における東国の仏教信仰のようすを伝える貴重な史料といってよい。

 同書には主として東国に住む八十余人の人物が登場するが、そのなかに信濃国人が四人みえる。「水内郡善光寺」の真蓮(しんれん)もその一人で、かれについては、「本師仏(ほんしぶつ)」に供えた花・米・餅(もち)・油などを私物として使ってしまったため、死後、八面で三丈五尺の大蛇になったという、簡潔な記述がある。類型的な因果応報譚にすぎず、善光寺が当時から特別の寺であったということは、ここからは読みとれない。後世、善光寺如来のキャッチフレーズのひとつとなる「本師」ということばも、仏教ではもともと「祖師(そし)」とか「根本の教師」といった意味で使用されるもので、一般には釈迦如来をさすことが多かった。なお、本書には信濃在住の人物で、もう一人「清水寺(せいすいじ)の利有」が金泥(こんでい)一切経を書写した功徳により、都率天(とそつてん)内院(兜率天と同義で弥勒(みろく)浄土のこと)に生まれ変わったという話がみえるが、この清水寺は若穂保科もしくは松代町西条に現存する清水寺と考えられる。そのほかの国の場合も、取りあげられている寺院はいずれも有力寺院であることからすると、善光寺も当時、地方では有力寺院のひとつと認識されていたことは確かだが、知名度の点からすると中央ではまだ無名の存在で、しかも、阿弥陀信仰の霊場にはなっていなかった。そのことは、同書自体に西方極楽浄土の思想的影響がまったくみられない点からもうかがえよう。


写真7 横山(城山公園)から善光寺を望む

 善光寺が中央の貴族社会や仏教界でその名前が知られるようになるのは、天台宗寺門(じもん)派の本山である園城寺(おんじょうじ)(三井寺(みいでら)、滋賀県大津市)の末寺となったことが、ひとつの契機であった。その時期は明らかではないが、地方の有力寺院が中央の権門寺院の末寺化することは、一般に一一世紀後半から始まり、一二世紀前半にかけての時期に集中しているから、善光寺の場合もほぼその間のことと思われる。一例をあげれば、寺門派の霊場寺院となる紀伊粉河(こかわ)寺(和歌山県那賀郡粉河町)が園城寺の末寺となったのは、康平年間(一〇五八~六五)のことである。末寺になると、通例、本寺の僧のなかから別当が選任された。善光寺別当に関する初見記事は、『後二条師通記(ごにじょうもろみちき)』の永長(えいちょう)元年(一〇九六)の条に載る諸寺別当補任(ぶにん)の記事で、このとき善光寺別当に任命された「頼救阿闍梨(あじゃり)」も素性は不詳ながら、寺門派の僧侶(そうりょ)とみてよい人物である。

 以後、一五世紀前半まで園城寺の支配がつづいていたことが知られるが、その間、一貫して園城寺の末寺であったかというと、じつは当初、一時的に山城国石清水(いわしみず)八幡宮(当時は神仏習合の寺院としての性格が強かった。京都府八幡市)の末寺になったこともあった。そのことは、『長秋記』の元永(げんえい)二年(一一一九)の条によると、鳥羽天皇の皇后藤原璋子(しょうし)が公卿(くぎょう)や女房を率いて鳥羽から淀川を下って摂津まで船遊びをしたさい、石清水八幡宮の僧侶が所有する船が何隻か提供されたが、そのなかに「善光寺別当清円」の船があり、この清円は八幡別当も歴任したことのある人物であった事実からうかがわれる。

 院政期は南都北嶺(なんとほくれい)に代表される諸寺の僧兵の力が強大となり、何かにつけて朝廷に強訴(ごうそ)したり互いに抗争を繰りかえした時代だが、とりわけ、終始妥協のない対立をつづけていたのが、天台宗の二大派閥である延暦寺を本寺とする山門派(慈覚門徒)と園城寺によった寺門派(智証門徒)であった。このなかにあって、石清水八幡宮は、それまで支配下においてきた筑前国(福岡県)大山寺を、長治(ちょうじ)元年(一一〇四)に延暦寺の悪禅師法薬のために実力で奪われるといった事件にみられるように、園城寺とは利害関係を等しくしていたため、相互に寺僧間の交流も深く、八幡僧には寺門派に入門するものも多かった。

 善光寺が石清水八幡宮の末寺となっていたのは、ひとつにはこうした師弟関係が媒介となったと推定されるが、当時の本末制度が荘園制的な経済関係を本質としていた点からすると、善光寺にほど近い更級郡小谷荘(おうなのしょう)(別宮。更埴市)が全国でも代表的な八幡宮領(のちのちまで八幡別当領として知られる)であった事実も無視できない。つまり、荘園経営のために中央と現地とを往来した寺僧にとっては、善光寺はきわめて身近に存在する寺院であり、そのことが所領化するもうひとつの理由であったとも考えられる。