善光寺信仰の発展

508 ~ 510

当時、中央の仏教界や貴族社会の願往生者(がんおうじょうしゃ)のあいだでは、浄土思想が隆盛になりつつあった。わが国における浄土思想(とくに口称念仏)の流れは、比叡山を中心とする天台宗系の僧によって受けつがれ、発展してきたもので、これを天台浄土教とよんでいる。善光寺の本寺であった石清水八幡宮や園城寺もむろん、この影響を受けており、善光寺が極楽浄土へいたる霊場として位置づけられた背景も、こうした動向のなかで理解することができる。

 とくに最初の『善光寺縁起』は、善光寺が石清水八幡宮の末寺であった時期に、熱烈な八幡信仰と浄土信仰をもっていた、大江匡房(まさふさ)を中心とする堀河朝(一〇八六~一一〇七)の文人グループとの接触のなかで作成されたのではないかと思われる節がある。その理由としてつぎの三点が考えられる。第一に、『扶桑(ふそう)略記』に引用された「善光寺縁起」の成立時期が、『扶桑略記』とほぼ同時期とみられ、しかも『扶桑略記』が通説のように僧皇円の編さんではなく、材料や用語などの点から大江匡房がかかわっていた可能性が強いこと。第二に、大江匡房が執筆した『続本朝往生伝』に八幡神の本地を阿弥陀如来とする説話がみえるが、これは八幡信仰と浄土信仰の一体化を意図した匡房自身の創唱と考えられ、しかもここでは本地仏が、のちに善光寺如来のキャッチフレーズとなる「生身(しょうじん)の仏」として登場すること。第三に、匡房は二種類の石清水八幡縁起を執筆しているが、そのひとつは善光寺別当を勤めた清円の父、清成(第二〇代八幡別当、第九代八幡検校(けんぎょう))の依頼によるものであり、しかも清成は匡房の学問上の弟子であったことが知られること、などである。あわせて、匡房の父成衡(しげひら)は信濃守を勤めたことがあったから、匡房が善光寺のことをよく知っていたことは確かで、最初の『善光寺縁起』の作者を匡房と断定することはできないものの、かれを取りまく人びとのなかに執筆者がいたことが想定される。なお、匡房の上司で親しい関係にあった関自後二条師通(もろみち)も、善光寺に特別の関心をいだいていたことは、その日記に別当補任のことを記していた点から知られ、両人とも反山門、親寺門の姿勢を明確にしていたことも象徴的である。

 こうして、善光寺の最初の縁起は都で作成されたとみられるが、そこでは『日本書紀』の記事を借用して「日本最古の仏」であるとする記述がなされた。しかし、当時の善光寺の現地の状況はほとんど不明で、都からの参詣者がいたかどうかも確認できない。おそらく善光寺はこの段階では、中央の大部分の願往生者にとって、まだ見ぬユートピアとしての阿弥陀霊場のような存在であったようである。

 このあと、ふたたび園城寺の支配下に入ると、このもとで一二世紀中ごろ、善光寺にじっさいに参詣する人びとが史料にあらわれてくる。その最初の人物が寺門派の僧で、のちに園城寺の長吏も勤める覚忠(かくちゅう)(一一一八~七七)であった。鎌倉時代に撰進された『続古今和歌集』に、「善光寺にまうでける時、をばすて山の麓(ふもと)に宿りてよみ侍(はべ)りける」という詞書とともに収められた「今宵(こよい)われ姨捨山(おばすてやま)の麓にて月待ち侘(わ)ぶと誰か知るべき」という歌から、その点を知ることができる。

 覚忠は摂関家(せっかんけ)の藤原忠通(ただみち)の子で、九条兼実の年の離れた兄という貴種の出身であり、かれ自身ものちに大僧正にいたり法務も歴任するという仏教界の重鎮となるが、善光寺への参詣は決して優雅な旅ではなかった。かれの事跡をたどると、大峰山で五〇日間の参籠(さんろう)をしたり、西国三十三ヵ所巡礼をおこなった最初の確実な人物であったりした姿も浮かびあかってくる。それと同様のことは当時の寺門派の高僧が、いずれも実践していたことであった。たとえば、覚忠と同時代の僧では、行尊が「難行苦行霊験者」で、役行者(えんのぎょうじゃ)の後継者と称されたとあり、覚讚(かくさん)は大峰山・葛城(かつらぎ)山・熊野山などの参籠が二〇〇〇日にもおよび、上皇の熊野参詣の先達(せんだつ)を二〇回も勤めたことが知られる。のちに修験道につながるこうしたきびしい修行こそが、極楽浄土に到達する方法であるとするのが寺門派の思想であったが、それは山門派の比叡山延暦寺が当時、現実を肯定し、修行を軽視しがちな天台本覚(ほんがく)論にもとづく浄土思想を基調としていたことにたいする反発でもあった。三十三ヵ所の霊場も第一番の紀伊国の熊野那智山青岸渡寺(せいがんとじ)をはじめ、いずれも難所からなっており、当初は修行コースとして設定されたものであったことに納得がいく。信濃善光寺はまさに、この三十三ヵ所の最後の霊場、美濃国谷汲山華厳寺(たにぐみさんけごんじ)(岐阜県揖斐(いび)郡谷汲村)から延長線上に位置する霊場と認識されていた形跡があるのである。

 なお、平安末期ごろ、都から善光寺を訪れたもう一人の人物に、入宋(にっそう)した念仏僧で、後年東大寺の勧進職を勤めたことで知られる俊乗房重源(ちょうげん)がいた。その正確な時期は不明だが、みすがらの事蹟(じせき)を書きとめた『南无(なむ)阿弥陀仏作善(さぜん)集』によれば、生涯に二度も訪れたことと、善光寺如来の模刻像を造立(ぞうりゅう)していた形跡があることが知られる点で注目される。