北信濃の山岳霊場

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国土の約八〇パーセントが山地で占められているわが国では、古代信仰と山とのかかわりは格別深かったが、とりわけ中部高地に位置する信濃では、どこにいても山を眺めることができただけに、古代信濃の人びとと山の信仰とは切っても切り離せない関係にあった。原始信仰であるアニミズムの思考からすると、すべての山に神が宿るということになるが、のちのちまで霊山として信仰や登山の対象とされたのは、なによりも山容が秀麗で、とくに冬場は冠雪によってその美しさがいっそう引き立てられるような山か、あるいは逆に、奇怪で見るものに畏怖を感じさせるような山で、いずれにしても周囲とは違ったひときわ目立つ山の場合が多かった。

 北信濃では戸隠山・飯綱山・黒姫山・斑尾(まだらお)山に越後の妙高山を加えた、いわゆる「北信五岳」が古くから善光寺平の人びとによって信仰された代表的な山であったとみてよい。このほかに、後世の史料や伝承によって信仰が知られる山として、小菅(こすげ)山・高社(こうしゃ)山・霊仙寺山・虫倉(むしくら)山・冠着(かむりき)山・四阿(あずまや)山・妙徳山・皆神(みなかみ)山・奇妙山などをあげることができる。


写真8 戸隠連峰 (戸隠村)

 ところで、山岳信仰は最初から「修験道(しゅげんどう)」であったわけではない。山の信仰はまず、里から日常的に眺めることから始まり、しだいにそこにまします山の神を里に勧請(かんじょう)するようになる。これが神社成立のひとつの背景をなしていたが、当初の神社は仮設的で臨時の祭場にすぎなかった。ついで、神の宿る山頂に登攀(とうはん)しようとするものが出現したことにより、山の信仰は新たな段階を迎える。このころになると外来の道教や仏教の影響が山岳霊地にももたらされ、素朴な山の神の宿る場所であった霊山が、神仙思想にもとづく理想郷として説明されたり、弥勒(みろく)菩薩の住む兜率天(とそつてん)、さらには阿弥陀如来のおわす極楽浄土と認識されるようになるのである。そして、修行者が訪れて山中抖藪(とうそう)などの肉体的な鍛練を繰りかえすことにより、呪験(じゅけん)力を感得し、それによって自他の救済をはかりつつ、加持祈禱(かじきとう)や峰入りなどの儀礼をととのえた宗教としての修験道へと発展していったのであった。こうして各地から行者や山伏が訪れるようになると、山麓(さんろく)には宗教集落が形成され、宿坊も成立してくるのである。

 山岳信仰とその霊地には、このように時代の変化に応じて、一般にアニミズム・シャーマニズム・山中他界観・開山伝承・陰陽道(おんみょうどう)・浄土思想・神仏習合・宗教集落・女人(にょにん)禁制といったさまざまな要素が認められるが、戸隠山は長野市周辺ではもっとも規模が大きく、史料的にも他に比較して恵まれていて、以上のような諸要素をほとんど包含(ほうがん)していたことがうかがえる典型的な霊場であった。

 戸隠信仰といった場合、狭義の戸隠山のことだけでなく、本院岳を主峰とする西岳や、五地蔵山、高妻(たかつま)山、乙妻(おとつま)山などをふくめた、いわゆる戸隠連峰全体にたいする信仰をさしている。ゴツゴツした岩肌や峨々(がが)とした山容を特徴とする戸隠連峰は、見るものにある種の威圧感をあたえるが、この屹立(きつりつ)した峰々をあたかも九つの頭をもつ龍に見たてて、「九頭龍(くずりゅう)神」として崇拝することから始まったようである。むろん、山にたいする信仰はじっさいには農耕の神への信仰であったり、水源の水神への信仰であったりと、さまざまに信仰されたりするが、戸隠の九頭龍神も同様であった。また、九頭龍神はのちには、この地の地主神として意識されるようにもなり、それをまつる九頭龍社は今は奥社社殿のわきにひっそりと鎮座しているが、後世の『戸隠山顕光寺流記(るき)』によれば、かつては本院権現堂とか御祭所とよばれて、山内における信仰の中心的な位置を占めていたものである。

 戸隠山を最初に開いたと伝承される人物は学問(がくもん)(学門とも)行者で、鎌倉時代の中ごろ、比叡山の承澄(しょうちょう)が天台密教の修法(しゅほう)や図像を集大成した『阿裟縛抄(あさばしょう)』の諸寺略記の項に収められた「戸隠寺」の記事にみえる。それによれば、嘉祥(かじょう)二年(八四九)ごろ、飯綱山で修行していた学問行者が、たまたま使っていた独鈷(とっこ)が飛んでいってしまい、落ちた場所に行ってみると大きな岩屋があったので、ここに入って法華経(ほけきょう)を誦(しょう)していると、九つの頭と一つの尾をもった「鬼」(ここでは龍のこと)が聴聞にやってきた。自分はこれまで放埒(ほうらつ)に過ごしてきたためにこのような身になってしまったが、法華経による功徳を積んで悟りを得たいというので、学問はその鬼を諭して、元の住家である岩屋のなかに帰らせ、岩屋の戸を封じてしまった。この場所に建立されたのが戸隠寺だというものである。

 後世の付会とはいえ、この話は戸隠顕光寺の起源説話であるとともに、開山伝承にもなっており、さらには神仏習合の初期段階によくみられた神身離脱説話の片鱗(へんりん)もうかがわれる。さらに、この縁起で重要な点は、飯綱山のほうが霊山としては先に開かれていたことが示されていることで、このことは飯綱山が善光寺平のほとんどの場所から眺めることができたのにたいして、戸隠山は里から望める場所が限られていたためであるとみてよい。九頭龍神の社が官社に列することがなかったのも、ひとつにはこの点と関係があろう。

 中央に残された文献で、戸隠のことがみえるのは、今のところ『能因歌枕(のういんうたまくら)』の信濃国の項に「あさまのたけ」「こまがだけ」につづいて「とがくし」とあるのがもっとも古いとされているが、同書は三十六歌仙のひとりとして知られる能因(九九八~一〇五〇?)が編さんしたもので、長元(ちょうげん)元年(一〇二八)ごろに歌枕をじっさいに訪れて現地を確認して執筆したという説があり、これにしたがえば、一一世紀はじめころには都の貴族社会でも戸隠山のことが知られるようになっていたことがわかる。

 これにつぐものとして、天永(てんえい)二年(一一一一)から間もない時期に成立したとされている、三善為康(みよしためやす)の『拾遺(しゅうい)往生伝』巻下にみえる長明の話がある。それによると、永保(えいほう)年中(一〇八一~八四)のこととして、戸隠山に住む持経者長明は、二五歳のときから三年間、法華経を読誦(どくじゅ)しつづけ、その数は毎日一〇〇部におよんだ。日ごろ訪れた人にたいして「自分は喜見菩薩の後身である。これまで自分の身を焼くことは三遍あったが、今度こそ三月十五日を期して今生(こんじょう)の終焉(しゅうえん)にしようと思う」といっていた。その時期はややずれたが、二月十八日についに焼身をとげて、兜率天に往生することができた。こうした長明の行為は『法華経』の薬王菩薩本事品にみえる喜見菩薩の焼身供養譚(たん)に倣(なら)った、一種の捨身(しゃしん)行為であり、この当時の戸隠信仰の本質をよく示している。

 それは第一に、山内では法華経の教えが重要な位置を占めていたことである。その点は、戸隠神社に現在、一二世紀ころに書写された『紙本墨書法華経残闕(ざんけつ)』が伝わることや、『顕光寺流記』の記事によれば、そのころしばしば「金泥(こんでい)法華経」が戸隠に奉納されていたことにも示されている。また、山内の諸堂のうち本院の御祭所(権現堂)についで重視された講堂が建立されたのも、居住僧が法華経研鑽(けんさん)の成果を競う法華八講をおこなう必要からであった。

 そして第二には、かれらの修行の基調は長明の行動に示されているように弥勒(みろく)信仰(弥勒上生思想)であった点で、これはわが国では、このあと飛躍的に発展してくる浄土思想の先駆的形態のひとつといってよいものである。そのいっぽうで、各地の山岳霊場で発展しつつあった修験道が戸隠山にもしだいにもたらされ、行場の施設である霊窟(れいくつ)・岩屋・岩殿などが整備されはじめている。こうして、これまでのような「法華の持経者」だけでなく、登攀(とうはん)などのきびしい修行を目的として訪れる宗教者も増え、後白河法皇の撰(せん)になる『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』では伊豆国の走湯山(そうとうさん)、駿河国の富士山、伯耆(ほうき)国(鳥取県)の大山(だいせん)などとともに「四方の霊験所」のひとつに数え立てられるにいたった。